第23話

怪我の功名



 笙さんからは本当に時々、バクテリアの写真とメッセージが送られてくる。


「暑い毎日ですが、適温中」とかそんな感じでまったく色っぽいメッセージじゃないのに、これが下心だなんて、高等技術過ぎると思いながら、返事を返す。


「アルバイト先がなくなる予定なので、他を探し中です」と私の返事は何の面白味もないものだった。


 実際アルバイトを探しているけれど、面接まで受けてない。ただベッドの上に寝転んでネットの求人を見ているだけだった。部屋に籠っていると腐りそうだ。私は翠さんから預かった鍵を返すのにどうしたらいいか悩んだ。


『小人と暮らしてるみたい』といつか翠さんが言ってくれたことを思いだす。


(そうだ、小人になればいいんだ)


 翠さんのいない時間にこっそり家に行って、炊事をすることを思いつく。


 しかしいない時間がはっきり分からない。基本は午前中、外に出てることが多いけど、昼からの日もある。


 私は翠さんが会社を立ち上げているのは知っていたので、住所で電話番号が出てこないか検索してみた。会社の固定電話の番号が分かったら、電話して不在だと家に入ればいい、と思いつく。もし出たらそのまま切ってしまう。


「うん、うん。いいアイデアだ」と呟く。


 夏休みのちょっとした遊びのような気持ちで始めた。



 翠さんがいないか、電話で確認して、そして扉の前でも耳を澄ませる。静かだとそのまま鍵を回して家に入った。いつ帰ってくるか分からないので、ドキドキする。扉を開けると忙しいのか、新聞が床に落ちていたし、服も脱ぎ散らかされている。私は服を集めて洗濯機の中に入れて、回した。そして新聞を拾い集めて、まとめておく。掃除機を軽くかけて、ご飯の用意をした。今日は麻婆豆腐。すぐ作れてしまう。炊飯器でお米を炊いて、キュウリのサラダもすぐに作れた。洗濯ものをベランダに干すと、風鈴が風に揺れていい音が鳴る。


 ここでのんびりしていた時間がすでに懐かしくなりながら、洗濯物を干していく。


(帰ってきたらびっくりするかな)と思うと、楽しくなってきた。


 ご飯はテーブルの上に置いていいかな、と少し迷う。もしかすると、昼に帰って来ないかもしれない。この季節、ちょっと危ないかもと悩んだ末、冷蔵庫の中にしまう。お昼に気が付かないかもしれないけれど、夜までには冷蔵庫を開けるはず。一日に一度くらいは冷蔵庫を開けるだろう、と思って冷蔵庫の扉を閉める。


 ふとここで顔を近づけられたことを思い出すと、ドキドキしてきた。


 大して片付いてはいないけれど、これでよし、と私はこっそり部屋を出て鍵を閉める。翠さんに出会うことなく一日目は上手く行った。

 


 二回目に家に入ると、テーブルの上にお金がそのまま置かれている。その横にメモがあった。


「素晴らしい料理人で、働き者の小人さんへ。このお金は買い物に使ってください。一日不在なので、よければゆっくりして行ってください。冷凍庫に美味しいアイスがあります。どうぞ」


 その下に不在日と数字が並んでいる。


 もうわざわざ確認しなくてもいいんだ、とスマホでそのメモを写真に残す。私は久しぶりに暢気に翠さんのベランダでゆっくりしたり、家事をしたりした。


 翠さんにはもうすでに私だとばれているんだな、と思うと、何だかどんな気持ちなのか聞きたくなる。少しは笑ってくれただろうか、と思いながらアイスティを作って冷蔵庫で冷やす。


 一度、電話した時、翠さんが出た。私は慌てて切ったけれど


「もしもし? …き」まで聞こえた。


 小人は私だって分かったのだろう。鍵だってまだ持っている。この小人ごっこは夏の間だけ…と思ってる。実際、大学が始まったら頻繁には来れないし、本当にバイトも探さなくてはいけない。今だけこの場所に居たかった。


 不在日を携帯のスケジュールに入れて、そしてメニューも考えることにした。本屋さんで美味しそうで簡単なレシピ本を買ってきた。たまにデザートも作って持って行くことにする。お母さんが料理し始めた私を不思議な顔で見ていたが、ちょっと元気になった様子を見てほっとしているようだった。


 水羊羹とか、オレンジの寒天ゼリーとか作ってタッパーに入れる。オレンジの寒天ゼリーは本当に美味しくできた。水羊羹は鈴音ちゃんの好物だったから、持っていく。


「絹? それ誰にあげるの?」とお母さんに聞かれたから「友達。桃ちゃんと奈々ちゃん。お出かけしてくる」と言い訳をする。


「そうなの」とだけ言ったけれど、お母さんは少し不思議そうに見ていた。


 あまりあれこれ聞かれたくなくて、慌てて家を出る。オフホワイトのコットンワンピースを来て、麦わら帽子を被った。カゴにデザートを入れて出かけるので、まるでピクニックに行く恰好だ。


 私は翠さんが置いていったお金で食材を買う。今日はハンバーグを作ることにした。ひき肉を探していると、甲高い声で湊を呼ぶ声がする。麻友だ。


「湊ー。お酒飲んじゃう? 昼から? バイト休んでるんでしょ? いいじゃん。あ、これ買おー」


 お酒コーナーは背後だったから、振り向かずにそっとひき肉を入れる。近くに売っているハンバーグの素もカゴに入れて、卵コーナーまでそっと移動する。ここでも小人のフリしている自分がおかしくなってきた。卵も入れて、サラダ菜を買って、トマトも買う。


 どうやら二人は入り口付近の総菜コーナーで選んでいるようなので、一番遠くのレジに並んだ。


 私はそんなに料理が得意じゃないから、大したものは作れなかったけれど、卵焼きだけでも湊は喜んでくれたな…と思いかえして、我に返る。料理マウンティングを知らずにしていた。


(もー、終わったんだから)と私は首を横に振る。


 レジも終わって、買ったものをカゴに入れた。二人もレジに並んでいるから、私は顔を横に向けて、見えないように通る。帽子被ってて良かったと思った瞬間、


「湊ってさー。ちょっと田舎っぽい子が好きだよね。麦わら帽子被ってる子とか…」と麻友が笑いながら言うのが聞こえた。


 湊の返事は聞こえなかったけど、私はそのまま出口に向かった。



 田舎っぽいと言われてしまったけれど、私は自分ではお気に入りだった。ずんずん歩いて行くと、後ろから走って来る音がする。私は邪魔にならないように道の端に寄った。通り過ぎていくかと思ったら、ちょっと過ぎて振り返る。


「やっぱり…絹だった」


 湊が追いかけてきていた。


「…あ」


「何してるの?」と目を細めて私を見る。


「知り合いが住んでて…」


「絹…。今さらだけど…絹がいい」


 今さらという言葉がこれほどまでしっくり感じたことはなかった。


「あ…でも…麻友さんが」と私が言った時、後ろから麻友が走って来る足音がする。


 そして突然、背中を付き押されて、私は前に倒れてしまった。カゴから買ったものが飛び出す。


「あ…」


 卵も割れているし、寒天もタッパーがひっくり返ってる。でも蓋は外れていなかった。痛いより、まず私が地面に倒れて確認したのはそれだった。


「もう来んなって行ったのに」と怒りの声が聞こえる。


「絹ちゃん、大丈夫?」と湊が駆け寄り、私を起こしてくれて、麻友に「何するんだよ」と怒っている。


 私と話す声が全然違う。


「絹ちゃん、怪我してる」


「あ、大丈夫。あの…道に散らばってるの拾ってもらってもいい?」


 湊はすぐに集めてカゴに入れてくれた。その間、背後ですごい形相をしているであろう麻友の圧を感じる。


 それでも私は立ち上がって、麻友の方を向いた。


「痛い」と私は言った。


 そしたら麻友が驚いたような顔をする。


「後ろから押すなんて危ないよ」


 腕に擦り傷を作ってしまった。


「それから、また来るから。知り合いの人のところに行く予定だったから。また来るから」と興奮のあまり二回も言ってしまった。


 麻友が何か言おうとするから、かぶせて大声で言った。


「湊のこと、好きだったんでしょ? もっと大切にしなさいよ。湊、そんなにお酒強くないし」と元カノマウンティングを最大限にした。


 ちょっと飲んで、すぐに酔ってしまう湊を私は知っている。湊はお酒が好きなんじゃなくて、みんなが楽しんでいる雰囲気が好きで付き合ってるだけだ。


「何よ。知った風な」と麻友が手を上げようとしたから、湊が止めてくれた。


「もう止めろよ」


 私はその隙に慌てて走り去る。後ろで口論する声が聞こえるけれど、振り向かずに小道まで急いだ。


 急いで外階段を上がって二番目の扉の鍵を開ける。そして慌てて鍵を閉めた。まさかここまで追ってくることはないと思うけれど、ドキドキして、しばらく動けない。擦り傷は膝にもできていて、ワンピースも汚れてしまっている。とにかく傷のついたところを洗い流さなければ、と思い、サンダルを脱いだ。


 ぐちゃぐちゃになってしまった卵のパックをシンクの中に置く。割れてないものは冷蔵庫にいれて、割れてしまったのはハンバーグに使えるかもしれないから見極めようと思った。


「絹ちゃん」と背後から声を掛けられる。


 振り向くと翠さんがいた。


「え? あ…」


 今日は不在日だったはず、と思ってスマホを確認しようとしたら、謝られた。


「ごめん。違う日、書いちゃった。…怪我してるの? 転んだ?」


「あ…えっと」


 どう説明しようかと思っている間に、手を引かれて洗面台に連れて行かれた。


「足も? お風呂場行く? 服…洗濯した方がいいね。今日は天気もいいからすぐ乾くよ」


 久しぶりに会った翠さんの優しいまなざしに私は安堵して泣いてしまった。


 洗面台にあるティッシュをすぐに渡してくれるのに、理由は聞かない。そんなところに甘えて涙を流す。


「落ち着いたら、お風呂場、使いな。着替え用意しておく。鈴音のがあるから…」と出て行こうとするから私は「鈴音ちゃんのじゃなくて、翠さんの服貸してください。だって…やりすぎ…になる」と言った。


「うん。分かった。ありがとう」と何故か感謝された。


 すぐにTシャツと短パンを持ってきてくれた。私はお風呂場で砂と血を洗い流す。全て擦り傷だから、大したことはないけれど、広範囲にある。タオルも用意されていて、軽く水気を押さえる。血が薄くついてしまった。着替えて外に出ると、翠さんが洗濯機を回していた。


「…翠さん」と声をかけると、押し入れの中を覗き込んでいた。


「なんか、大きい絆創膏が無くて…買ってくるよ」


「え? 大丈夫です」


「まぁ、すぐだから」と出て行ってしまった。


 待ってる間に私はハンバーグを作ることにする。シンクにおきっぱなしの卵を選んで比較的ダメージの少ない卵を使う。ひき肉にハンバーグの素を足して捏ねていると、翠さんが戻ってきた。


「ありがとございます」と手を洗おうとすると「貼ってあげるからこっちに来て」と言われた。


 生肉を触った手で貼るのはさすがに良くないと言う事で、翠さんがケースを開けて、絆創膏を取り出す。


「椅子座って。足、出して」と翠さんが片膝を立てて私の足をそこに乗せる。


 何だかすごく恥ずかしい気持ちになる。


「痛い?」と訊いてくれるけど、痛いはもう通り越して、今は恥ずかしさが一番強い感情だから、首を横に振った。


 微かに笑ったような息が足にかかる。絆創膏を傷に当てて、そっと上から押さえてくれる。


「じゃ、反対も」


 両足に怪我をしている私は足をのせ替える。


「こっちは一枚じゃ足りないね」と言いながら、そっとまた貼ってくれる。


 お姫様になった気持ちになる。さっきまでひどい気分だったのに、怪我して良かったとすら思ってしまう。二枚目も優しく貼ってくれた。


「どうしたの? ほんとに…」と言いながら腕にも貼ってくれる。


 丁寧に傷に全部貼ってくれた。


「はい、できた」


「ありがとうございます」と言って、私はまたハンバーグ作りに専念する。


 洗濯機が終了したというアラーム音を鳴らす。翠さんが洗濯機まで行って、私のワンピースを干してくれた。


 フライパンに蓋をして蒸し焼きにする。


「絹ちゃん、座ってなよ。何か飲む?」と翠さんが言ってくれる。


「…翠さん、どうして? お仕事、変更になったの?」


「そうだね」と言って、冷蔵庫からアイスティを取ってくれる。


 アイスティは私がいる時だけ作っていたものだった。翠さんがわざわざ作ってくれたのだろうか、と思って首を傾げる。


「仕事は変更した。可愛い小人に会いたかったから。いろいろ…仕込んでた」


 そう言ってグラスに氷を入れて、綺麗な琥珀色のアイスティを注いでいる。


 私は罠にかかった小人だった。

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