第21話

心と体が追い付かない


 笙さんがハンバーグ代をおごってくれた。私は頭を下げてお礼を言うと「誘ったから」と言われる。心からお礼を言いたいのに「幾ばくかの好意と下心」という台詞が何度も頭の中で行き来するから、上手く言えない。


「帰る? 駅まで歩こう」と笙さんに言われる。


「…あの」


「何?」


「バクテリアの写真…」


「うん?」


「それを送ってくれたのも…好意ですか?」


「あ…まぁ、そうかな。どっちかって言うと、下心かも」


「え?」


 バクテリアは下心だったんだ、と私は驚いた。


「絹ちゃん、あれ見て、和んで、気を許してたでしょ?」とにっこり笑顔を向けられる。


「…! 策士ですか?」と私は軽く叫んでしまった。


「まあね。それなりに年取ってるから」


 二個上なだけなのに、と私は唇を噛んだ。


「あの…じゃあ、キスとか…セックスとか…そう言うの込みで下心で…私と? って考えてますか?」


 ストレートに聞きすぎたのか、笙さんを驚かせてしまった。


「いや、まぁ。そりゃ、男だから」


 ラーメンの懸賞Tシャツを着ている私がそういう対象になるはずないと思い込んでいたけれど、そういう問題じゃないようだった。


「好きじゃないのに?」


「好きだよ?」


「え? 一度しか会ってないのに?」


「今日で二度目だよ」


「二度しか」と言った時、一瞬立ち止まって、おでこ同士を軽くぶつけられた。


 そうして私がじっと笙さんを見るとにっこり笑った。


「好きだよ」


 私は笙さんに何もしていないのに、どこを見てそう思ったのだろう、と首を傾げたくなる。


「付き合って欲しいって思ってる」


「セックス…込みで?」と震える声で訊いてしまうと、笙さんはくすりと笑った。


「まぁ、そう。…とは言え、本当に忙しくて、なかなかデートも行けないから…ゆっくり考えて」


「お返事…あの…次会う時ですか?」と私は訊いた。


 お互い、名前しか知らないような関係なのに、どう考えたらいいのだろう、と思った。


「なんでそうガチガチに固まってるの? 俺は二回会えば充分だよ。たった二回で絹ちゃんが素敵だって分かったから、本当にいい子なんだなって思ってる。後は付き合っていくうちでわかったら良い事だし」


「そう…ですか」


 私はそんなに良い事をしたのだろうか、と思い返しても分からない。 


「まぁ、俺のこともっと知らないとって思うなら、それは合わせるから」


「…はい。私…やっぱり怖くて。付き合うの…。また駄目になったら…怖くて」


「ねぇ…絹ちゃん、セックス怖いの? さっきもなんか言ってたけど」


「セックスっていうか、なんか…男性の性欲が…」


「性欲?」


「あ、ごめんなさい。もうすぐ駅ですね」と私は話を逸らす。


 それ以上、聞いてこなかったので、黙って歩いて改札口で別れる。


「じゃあ…。また連絡するから。さっきのことは気にせずまたかき氷でも食べよう」


「はい。ハンバーグごちそう様でした。美味しかったです」と頭を下げた。


「絹ちゃん…。バクテリアの写真、送っていい?」


「あ、はい。なんかかわいいから…下さい」と私は言った。


 言った後で、それは下心なんだろうか、と思ったけれど、もう今日はいろんなことがあり過ぎて、私にはいっぱいいっぱいだったから、手を振って改札をくぐった。




 電車に乗って、家に向かう。今日はすぐに眠れそうだった。


 セックスというより男性の性欲が怖かった。湊は私のこと、可愛い可愛いと常日頃言ってくれたけれど、セックスの時は余裕がないからなのかもしれないけど、行為に集

中するあまり、私の気持ちは置いていかれるような気分だった。


 挿入がどうとか、前戯がどうとか、そういう話じゃなくて、ただ私は抱きしめてもらいたかった。お互いの匂いや、体温を感じたかった。それだけで良かった。


 でも湊も初めてだったし、豊富な知識であれこれ試したかったみたいで、私も経験も知識もない状況で、何だか心が置いていかれたような気持ちで、結局、私は一度もいいと思ったことはない。ただ早く終わって、ゆっくりしたいという気持ちになるだけだった。終わった後、優しく抱きしめてくれるのかと思ったら、ゴムの処理があったりと、お互い何だか冷めた時間になってしまう。それに行為後は男性はひどく疲れるらしく、すぐに熟睡してしまうこともあった。一人起きていて、天井を眺める孤独も知りたくなかった。


 セックスを求められてする度に私の心は置いてけぼりで、性欲をぶつけられる肉塊になった気持ちだった。


 湊のことは嫌いじゃないのに、と思いながら涙が滲んだこともあって、慌てさせたこともある。


「絹? 痛かった?」


「ううん。違うの」


 でも理由は言えなかった。求められれば求められるほど、空洞になっていたことを。


 そう思うと、思わぬ形で別れが来たのは良かったのかもしれない、と私は電車の窓に写る自分の顔を眺めた。


『絹ちゃん、可愛いねぇ』と言って、頭をくしゃくしゃする湊を思い出す。


 そんな時、私は少し腹を立てながらも、でもセックスの時よりはずっと幸せを感じていたことを思い出す。


 本当に湊のことは好きだった。


 でもセックスはしたくなかった。


 悲しくなるから。



 その日、私は疲れてぐっすり眠る予定だった。


 ベッドにもぐりこんで、目を瞑る。


 もう誰かと付き合うなんて、そして別れを経験するなんてしたくない。セックスだって嫌だ。でも誰かに優しく抱きしめられたい。ただそれだけ、と考えてると、心から悲しくなって、涙が止まらなくなった。


 湊と別れて、翠さんには家に来るなと言われて、私は行き場がない。だからと言って、笙さんと付き合うのも怖かった。いい人だけど、付き合うってそれだけじゃない。


 今日、いろんなことがあり過ぎて、私は少し弱ってるな、と自分で思う。


 寝苦しくて、エアコンの温度を一度下げた。



 今日は朝からバイトだった。バイトの後は桃や、奈々とご飯を食べる予定があったので、お母さんに晩御飯いらないと言った。


「…絹。最近家にいないけど…」


「あ、ごめんなさい。バイト…。もう少ししたら減るから。前半に詰めていれてて」といい加減な嘘を吐く。


「そう? 無理しないでね」と心配そうな顔をする。


「あ、でも他もバイトしようかな。なんか短期で…」と言う。


 それは考えていた。翠さんの家に行かないとなるなら、時間が余って仕方がない。


「…湊君。どうして…。あんなに絹と一緒に居たいって言ってくれたのに」


「お母さん…」


「ごめん。ちょっと息子みたいに思ってたから」と肩を落とす。


 お母さんは湊を気に入っていたから、落ち込んでいる。お父さんは何だか嬉しそうで、それが女二人の怒りを買ってしまい、今は大人しくしている。


 やっぱり家に居づらいので、私は困ってしまった。さっさと用意して、早めにバイト先に向かった。


 朝はそんなに人が来ないので、のんびり清掃や、商品の並び替えをしている。ゼリーが売れたのか少なくなっているので、補充しておいた。


「絹ちゃん、おはよう」とオーナーが来る。


「おはようございます」


「朝から偉いねぇ」


「だって、バイトですから」と言いながら、ゼリーの箱を持ってバックヤードに戻る。


 するとオーナーも後からついてきて


「あのさ。お店…たたもうかと思ってるんだ」と言った。


「え?」


「あんまり売り上げもないし…」


「そうなんですか?」


 私は家からも近いし、そんなにきつい仕事でもないから良かったのに、と思った。


「うん。ごめんね」と謝られる。


 衝撃で仕事が手につかなくなる。アルバイト探しに本格的に奔走しなければならない…と思った。


「いつ…から…」


「まぁ、夏の間は開けておくけどね」


 オーナーは淋しそうにそう呟いた。


 世界はいつ変わるかも知れない。自分が原因じゃなくても、今日あることが明日にはなくなってしまうことだってあるのだ、と私はぼんやりと知った。

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