第19話
乱高下
翠さんから涙が一粒も零れなかった。アイスティの氷が解けて、グラスが汗をかく。私の手首を掴んだ手に反対側の手を置いて、あの日の景色を思い出す。
「…翠さんは泣けなかったんですね。ずっとあの日から」
「絹ちゃんもいたんだよね?」
「はい。お葬式に…出てました。私、そこで会場の外でずっと暑い日差しの中、立ちすくむ翠さんを見てました。暑くて、立ってるだけで汗ばんできて、アスファルトの地面が陽炎で揺れて…。でも翠さんは少しも動かなくて。私、声を掛けたかったけど…」
「な…んかね。あの日、暑かったんだと思うんだけど、首の裏は日焼けして赤くなったんだけど、何にも覚えてないんだよ。鈴音が倒れて、救急車呼んで…。でも病室で追い出されて。亡くなったってことだけは看護婦さんが教えてくれたけど…。式場も教えてくれなくて、なんとか探して…やっぱり入れてくれなくて…。だから急に鈴音が消えたみたいで」
私が手を置いている手は大きくて、包み切れない。あの時も何もできずにただ後ろから見ていただけだった。
「お水…あげたかったです」
「え?」
「あの時、私、お水あげたかったです。ずっと立ってた翠さんに」
「…そんな」
「だって俯く背中が…淋しそうだったから。…だから…今はアイスティ持ってきますね」と私は手を離そうとしたら、翠さんがもう片方の手で押さえる。
「ありがとう」
でもまだ翠さんは泣けなかった。私はそんな翠さんがいつか鈴音ちゃんのことを綺麗な思い出に変えられたらいいな、と思う。だから翠さんの手の甲に唇を寄せた。大きな手に僅かに触れる。
「…絹ちゃん」と掠れた声がする。
「アイスティ取ってきますね」と言って、慌てて手を振り切って冷蔵庫に向かった。
心臓が急に忙しくなる。冷蔵庫の冷気で頬を冷やす。自分でしたことなのに、なんてことをしたんだと今更後悔をする。あんなことをして、鈴音ちゃんになんの言い訳も立たない。アイスティを取る前に少し頭を冷蔵庫に突っ込んだ。
「絹ちゃん」と後ろに翠さんが立ってるから、私は驚いて倒れかかる。
後ろから抱き留められた。
「あのね…」と話しかけられるのを聞きたくなかった。
「あ、ごめんなさい。さっきのことは」と私はくるっと体を前に向かい合わせる。
言い訳が何も出てこない。翠さんが手を伸ばして、開けっ放しの冷蔵庫の扉を閉める。そのまま手が横に突っ張られてしまう。
(冷蔵庫ドンの形になってる)と私は横目でその腕を見る。
筋肉質の腕が見える。湊とは違うけれど、腕の筋肉は素敵だった。
「どうしたらいい?」と顔を近づけられる。
「え? どうし…」
さらに近づけられて、息がかかる。
「キスしようか?」と顎を指で軽く挟まれる。
(キス? なんで? どうして?)
力が抜けて、背中を冷蔵庫に預けてずるずるとしゃがんでしまう。私は何が起こっているのか冷静になろうとしたけれど、頭も回らない。
「もう来ない方がいいよ」
そう翠さんの言葉が降りかかった。私はバネが弾かれたように起き上がって、荷物をかき集めて部屋を飛び出した。
外階段を下りて、サングラスやら、帽子やらを忘れたことをに気が付いたけれど、それどころじゃなかった。
通りに出て、私は駅に向かう。涙が溢れそうになるのを必死に我慢して足を進める。気持ちが乱高下する。
「絹」と向かいから湊に声を掛けられて私は驚いた。
「あ…」と口を開ける。
今日は湊が一人だった。
「どうしたの?」と訊かれる。
「え? どうしたのって…」
私はラーメンの懸賞でもらったTシャツを着ていることを忘れていた。いつも湊の前では女の子らしい恰好をしていたからだ。
「…バイト。でも…もう終わったから。もう来ないから」と慌てて口走る。
「絹、ごめん。ちょっと家に来て」と手を掴まれる。
翠さんと違って、強い力だった。
「え? あ。ちょっと」
「話がしたい」と湊は私を引っ張る。
「話なら駅で…」
「謝りたいから」
「いいよ。もう…謝らなくて」と言いながら、私は手を何とか振りほどく。
「絹…」と辛そうな顔を向けられる。
「私も、湊も…どっちも悪くない。ただ…タイミングが合わなかっただけ」と私は湊の辛い顔を見たくなくてそう言った。
「違うよ。俺が悪い」
恋の苦さが胸を苦しくする。嫌いじゃない。嫌いになんかなっていないのに、何だか憎らしい。
「そうだよ。湊が悪い。…だからもう会わない」と吐き捨てて、走って駅まで行った。
頭がおかしくなりそうだった。
翠さんがキスをするか聞いてきたことより、もう来ない方がいいと言われたことの方が苦しい。そして湊が謝りたいという。謝られたってどうなる訳でもないと言うのに。
改札を急いでくぐり、来た電車に飛び乗る。
そのタイミングでバクテリアの写真が届いた。
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