第18話

さよならを繰り返して


 笙さんからバクテリアの写真が届いたりして、私は思わず微笑んでしまう。


「いいパパさんしてますか?」とメッセージを送った。


 久しぶりに翠さんの家にいて、私は家事をしていた。窓を開けて、掃除機をかける。翠さんは取引先に行って、渡すものがあると出て行った。翠さんの部屋には鈴音ちゃんの私物の入ったプラスチックケースがある。生理用品まで置いていたのだから、きっと何一つ捨てていないのだろう。だからこそ、鈴音ちゃんの持ちものはこれだけ? と私は驚いた。


 駆け落ちのように家を飛び出したと聞いている。親の反対を押し切って、翠さんと暮らし始めたなんて、私には想像つかない。そんなにも人を愛せた鈴音ちゃんにもっと話を聞いておけばよかった。


 メッセージが届く。


「お世話が大変」とまたバクテリアの写真だった。


 度々、彼らの写真を見させられていると、何だか可愛く思えてしまうから不思議だった。でも笙さんはやっぱりお世話が忙しいみたいで、メッセージもそんなに頻繁ではなかった。手の空いた昼休憩であろう時間にたまに送られてくる感じだった。


 いい人で、感じも良くて…恋愛できたらきっと楽しそうなのに…と私はため息を吐く。


 恋愛が怖い。自分が信じていたものが一瞬で、幻に変わる。


 湊は私を好きだって言ってくれてたのに、今は違う人の彼だ。やっぱり人間不信になる。笙さんだって、分からない。私だって…。


 だから家を飛びだしてまで翠さんと付き合った鈴音ちゃんは勇気あると思う。私にはできない。まして奥さんと子供がいる人なんて…余程好きじゃないと、覚悟なんて持てない。


 その気持ちが知りたかったな、と鈴音ちゃんのケースをなぞった。うっすら埃がついているので、私は使い捨てのモップで拭きとる。


「死んでも愛されるってすごい」と言いながら。


 このプラスチックケースはきっとずっとここにあるんだろうな、と思った。




 翠さんが帰ってきたので、私は作っていたサンドイッチを冷蔵庫から取り出す。


「おかえりなさい。お昼ご飯にしましょう」


「ただいま…。ありがたいなぁ」と翠さんは手を洗いに行く。


 私はガラス戸を閉めてクーラーのスイッチを入れる。部屋の窓やらベランダのガラス戸を締め切ると密閉された気分になる。


「翠さん…。アイスティでいいですか?」


「いいよ。喉乾いた」と洗面所から出てきた。


 私は氷をグラスに入れてアイスティを注ぐ。


「あの…鈴音ちゃんのこと、聞いていいですか?」


「いいよ? 何?」


「私の知ってる鈴音ちゃんって、おしとやかで穏やかで…でもきっと翠さんと情熱的な恋をしたと思うんです。それが想像つかなくて…。どんなだったんだろうって」


「そうだね。おしとやかで…穏やかだった。でも…言い出したら動かない頑固さもあったよ」


「頑固? 鈴音ちゃんが?」


 鈴音ちゃんは私より年上っていうのもあるかもしれないけど、私にはかなり甘かったし、私が欲しいものは全部譲ってくれた。ケーキもお人形も全部「いいよ」といつも私に選ばせてくれていた。


「最初は断ったんだ。俺は結婚してたし…」


「え? じゃあ、鈴音ちゃんがぐいぐいと?」と言いながら、麻友のことを思い出す。


「ぐいぐいってわけじゃなくて…。雨の日、帰られなくなって…。すごい雨だったんだけど…雷が鳴るような…まさに雷鳴が轟くって感じの」


 私は黙ってサンドイッチを食べる。鈴音ちゃんの恋を知るのになんだかドキドキしてしまう。


「側で震えてて…。気持ちが伝わってきて、それでも断らなきゃいけなかったとは思うんだけど…。俺も好きだったしね」


 思わず両手で顔を覆う。翠さんはクスっと笑って「その後は想像通り」と言う。


(わーわーわー)と頭の中で声を大きくして何も考えないようにする。


「何を捨てても…一生、大切にするつもりだったのに…」と言って顔を横向けた。


(鈴音ちゃん、良かったね。そんなに大切に思われて)と私は少し羨ましい。


「泣かせてばっかりだった。きっと辛かったと思う。親とも離れたし…」


「そんなこと…」と私はフォローしようと言葉を探す。


「ところで何かあったの? しばらく来ないなって思ったら、突然、来て、そんなこと聞いて」


 翠さんはサンドイッチを食べる。キュウリとツナのサンドイッチだ。


「…なんにもない…です。ちょっと来づらくなっただけです」


「そう? 好きにしたらいいよ」と意外とあっさり突き放された。


 そうしたら何だか悔しくなって、聞いて欲しくなる。


「元カレに彼女が出来て、ストーカー疑惑を掛けられたんです」


「え? 元カレって地元に帰ったんじゃなかったの?」と翠さんが驚いて聞く。


「そうです。でも彼女がそこに押しかけて…あれして…それで即彼女になって、連れ戻して帰って来たところに会ったんです」


「…たくましい」と翠さんの感想がまさにそうだったから、私は笑おうとして、涙が零れた。


「それで合コン行ったんですけど、いい人いたんだけど…やっぱり怖くなって」と手の甲で涙を拭く。


「で、ここに来たの? キャップ帽かぶって、サングラスかけて?」と翠さんが笑った。


 私は今日は髪の毛をまとめて、キャップ帽をかぶって、ジーンズ履いて、懸賞で当たったラーメンのTシャツを着て来た。


「…ごめんなさい。ここしか…居場所がなくて」


「だから好きにしたらいいよ。好きなだけいたらいいし、いつでもいなくなっていいから」とティッシュを差し出してくれる。


 しっかり鼻までかんでしまう。


「いなくなってもいいって…それは…役立たずだけど、本当に役立たずみたいで哀しい」と訳の分からないことを言うと翠さんは笑う。


「冗談。来なくて…困ってた。仕事とかご飯とか掃除とか…。後、淋しかった」と柔らかいほほ笑みのままで言う。


 最後の台詞に驚いて、涙が止まる。


「鈴音が夢に出て来て、君のこと頼んでた」


「そっか」


 鈴音ちゃんに会えないから、淋しかったんだ、と私は納得した。


「鈴音ちゃんの服…着ましょうか?」


 一瞬、固まった後、首を横に振られる。


「それは…やっぱりやり過ぎだよ」


「似てますか?」


「似てるよ。でも…言動は違うけど。だから…なんか…不思議な気持ちになる」


「あ、じゃあ、あれですか。アニメの声優が変わったみたいな?」


「それよりはもっと違う気がする」と翠さんが難しそうな顔をする。


 私と鈴音ちゃんは似ているけれど、中身が全く違うから仕方がない。


「こんなこと言うと、気が引けるかもしれないけど…、絹ちゃんを見ていると鈴音を思い出すんじゃなくて、鈴音がもういないことを実感させられる」


「え?」


 私は予想外のことを言われて驚いた。私が来ることで余計哀しさを増やしてしまったのかもしれない。


「…でもそれはいいリハビリなんだよ。お葬式…出れなかったから。まだどこかにいる気がして、会えないだけ…なんて思ったり。以前、絹ちゃんがアパートの下にいたのを見て、鈴音って口から出てた。帰ってくるはずないって分かっているのに、鈴音のものが捨てられない」


「…翠さん」


 そんなに愛される鈴音ちゃんが羨ましいと言う言葉を飲み込んだ。だって翠さんが辛そうだったから。


「だから似てる絹ちゃんを見て、もう鈴音はいないんだって、何ども言い聞かせてる。何度もさよならを言ってるんだ」


 だとしたら、なんて優しい顔で言ってるんだろう、と私は思った。時々、本当に優しく微笑んでくれるから。


「…二人で鈴音ちゃんの思い出話しませんか?」


「思い出?」


「思い出っていうか、私が知ってる鈴音ちゃんと、きっと翠さんが知ってる鈴音ちゃんは違うと思うし。なんか故人を偲ぶ感じで…」


 私は翠さんに私の知ってる鈴音ちゃんをたくさんあげたかった。こんなに愛してる人だから、たくさんたくさん鈴音ちゃんを受け取って、そしてさよならしたらいいと思った。



 鈴音ちゃんはバレエを習っていて、私も一度だけ体験したことがある。鈴音ちゃんが可愛いドレスを着て踊るのが羨ましくて、伯母さんにせがんで連れて行ってもらったのだ。きれいに指先までピンと伸ばされて、そしてしなやかに踊る。私もそのつもりだったけれど、私は何度やってもラジオ体操のピンと伸びた腕だった。そして二度と行ってない。


「絹ちゃんは、体操を習った方がいいかもね」とみんなに言われて、自分もバレエを諦めた。


 ただ鈴音ちゃんのつんと鼻を上に向けて、首をうんと伸ばしてポーズと取っているのは本当に綺麗だった。




「翠さん、鈴音ちゃん、小さい頃バレエをしてたの知ってます?」


「え? そうなんだ。全然知らなかった」


「綺麗だったんですよ? 怪我でやめちゃったけど…」


 鈴音ちゃんは怪我と受験の時期も重なって辞めたのだ。


「そっか。なんか…あまりにも短くて子供の頃の鈴音のことあんまり知らないままだったな…」と翠さんが言うから、私は自分の知ってる鈴音ちゃんを必死で思い出す。


 アイスはバニラとイチゴが好き。チーズケーキが一番好き。親子丼が好物で、水色が好き。ポテチはノリ塩派。嫌いなのはお化けとか暗いところ。中学校で表彰されるくらい絵も上手かったし、おしゃれも得意。私の髪の毛をいつも編んでくれて、器用だったこと。一気に喋ったから喉が渇いてアイスティを飲む。


「…そっか。そうだったんだ」と翠さんは懐かしむような表情で話を聞いてくれた。


「でも…本当の鈴音ちゃんのことは…きっと翠さんが知ってるはずです」と私が言う。


 私の知っている鈴音ちゃんは上辺でしかない。


「翠さんはきっと、鈴音ちゃんがかわいいから好きになったわけじゃないんでしょ? 鈴音ちゃんの人となりに触れて、惹かれたんでしょ?」


「もちろん可愛いから好きっていうのもあった。でも一生懸命なところとか、すぐに頬を赤くするとか、そういうところも可愛かった。優しい気遣いも、なにもかも」


 あぁ、私もこんな風に全てを愛されたい。


 やっぱり私は鈴音ちゃんが羨ましい。そんなことを思いながら、二人で鈴音ちゃんを懐かしむ。


「そして恋してた鈴音ちゃんは綺麗でした」


「絹ちゃん。ありがとう」


 きっと翠さんはまた私の中の鈴音ちゃんに「さよなら」と優しく言っている。それぐらい微笑みが美しかったから。


 サンドイッチは少しも減らず、アイスティだけが空になる。お代わりを取りに行こうと冷蔵庫に立った時、


「泣いていいかな」と手首を掴まれた。


 あの人は、私がお葬式で見ていたあの人はきっとまだあの場所から動けないでいる。

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