第16話
性欲に負ける
今日は翠さんが息子に会う日だと言う。車内広告で見たプールに連れて行くらしい。私は部屋でのんびりさせてもらうことにした。
「お昼ご飯も自分の分でいいから」
「はい。ごゆっくり。行ってらっしゃい」と見送ってから、私はベランダに出る。
最近、翠さんが大きな扇風機をベランダに置いてくれる。私は暑いけれど、扇風機の風と外の空気でぼんやりするのが好きだった。
鈴音ちゃんの作った風鈴が良い音をさせている。携帯には奈々ちゃんから合コンの誘いのメッセージが届く。
「絹は知らない人は嫌がるだろうから、先輩の友達誘ってもらうから」と書いてある。
新しく恋できるのだろうか、と思いながら返事ができないままだった。桃ちゃんは行くのだろうか、と思った時、桃ちゃんから電話があった。
「もしもし、絹?」と明るい声が聞こえる。
「桃ちゃん、合コンの話、聞いた?」
「聞いたよー。絹、行くの?」
「えー。ちょっと…考えてるところ」
「一緒に行こうよ」と桃ちゃんは割と前向きだった。
私が渋っていると「晩御飯食べるだけじゃん。絶対付き合わなきゃいけないってことはないし」と言う。
「確かにそう…」
「夏休み、せっかくだからさ。引っ込んでないで、出かけよう」と桃ちゃんが言う。
「うん。分かった」
「ところで今、どこにいるの? もしかしてあの人のところ?」
「うん。今いないけど。子供さんと遊ぶ日だって、プールに行ってる」
「子供? 誰の?」
私はそう言えば桃ちゃんに詳しい話をしていなかったな、と思った。いろいろ説明するのが面倒だけど、何だか隠してるみたいになるのは嫌だったので、全部話した。
「…絹。いつまでもそこに居ちゃだめよ」と言われてしまう。
「…うん。分かってる。迷惑かけるし」
「そうじゃなくて…」と桃ちゃんのため息が耳に届いた。
「…そうじゃなくて?」
「絹は気が付いた時には沼の底にいるからなぁ。とにかく合コンに行くよ。返事しとくから」と桃ちゃんに言われた。
沼の底…。桃ちゃんの言う意味が分からないわけでもない。
あの日、鈴音ちゃんのお葬式で、ずっと外に立っていたあの人に声をかけれなかった自分がまだいる。陽炎で揺れているアスファルトの景色。
深い悲しみと後悔だけは伝わっていた。
うっかりソファで昼寝をしてしまって、夕方になった。帰ろうかなと思ったけれど、私は晩御飯だけ用意して帰ろうと思った。冷蔵庫を見ると、ベーコンがあるだけだった。パスタでも作ろうかな、と思っていたからスーパーに行こうと、外に出た。もしかしたら晩御飯食べて帰るかもしれないけど、それはそれで翌日食べてもらえるからいいだろう。外階段を下りて、小道を通る。
日差しが傾いたとは言え、まだ熱い。私が大通りに出た時、湊とその友達の麻友と鉢合った。麻友は湊の腕を取っている。
「え?」
驚いたような顔でお互いを見る。麻友だけがにっこり笑っていた。
「絹ちゃん、お久しぶり。別れたんでしょ?」
「あ…うん。あ…そう」と何故かしどろもどろに返事する。
「湊が学校辞めるって言うから、ちょっと話聞いてあげるって。もし辞めるなら部屋の片づけとか手伝おうかと思って」とさらに腕をきつく絡める。
「辞める…の?」と私は湊を見た。
湊は目を逸らした。
「辞めないよー。あたしが説得したから」と麻友が答えた。
「…そっか。じゃあ」と私が去ろうとしたら、湊に手首を掴まれた。
「…絹は何してたの?」と小道を見る。
私が答えられずに黙っていると、麻友は大げさに驚いた声で言う。
「ストーカーじゃない? 復縁できると思ってたんじゃない?」
「…そんな」
最後まで言えなかった。翠さんのことを説明したくなかった。
「残念。湊と付き合うことになったから」
麻友は湊にもたれかかって、彼の顔を見上げる。湊は見返さなかったけれど、私の手首を離す。自由になった手首は麻友の言っていることが間違いないことを教える。
「そう。じゃあ」とくるっと向きを変える。
「もうこの辺、うろつかないでよ」と後ろから麻友の声がする。
そっか。ずっと麻友は私のこと嫌いで、湊のこと好きだったんだ、と納得した。バカップルとか言われたり、肘でつつかれたり、そういうのが気になってたけど、そう言う事だったんだ。
でも湊はどうして? と私は呟いた。
麻友を選んだんだろう。
悲しくてスーパーに行くことも忘れて電車に乗った。電車に乗ると奈々から合コンの日時のメッセージが来た。
「行かなきゃ」と私は呟く。
電車に乗って、夕焼けの滲んだ街を眺める。
バイト先にまた湊の友達が来た。
「絹ちゃんに謝らないと」と言われる。
もう夜だけど、今日はそこそこお客さんがいる。
「あ、何? でも…」
「バイト終わりまで待つから」
「え? 遅いよ?」
「うん。待ってる」
アイスコーヒーとチョコレートケーキをオーダーしてくれる。私はトレイに準備をしていく。
「湊が…麻友と付き合ってるの…知ってるから。別に大丈夫だよ」と小声で言った。
「…それ…俺のせいだ」
「ううん。そんなこと。…バイト早く上がれるか聞いてみる」と言ってアイスコーヒーをグラスに注ぐ。
「…ごめん」と謝られた。
別に知らなくていいことかもしれないけれど、私も気になってはいた。
一時間くらい一生懸命働いて、オーナーは三十分早く上がることを許してくれた。
「もう、絹ちゃん、あんまりそういうこと許してたら、他のメンバーに示しつかないから。まぁ、お客さん今いないけど…」
「ごめんなさい」
「…若いと辛いね」とオーナーは私を見て言ってくれた。
「え?」
「年取ったら辛い事とかそういうイベントもないから。せいぜい頑張って。はい、お疲れ」と言って、カウンターを変わってくれた。
私は頭を下げて、待っている湊の友人のところに行く。
「バイト終わったから、駅に行こう」
「…ごめん」
私は自転車を押して駅まで行く。駅はすぐそこだ。駅前の自転車置きに止めて、改札で話すことにする。湊の友達は
「俺、心配過ぎて、他の友達に二人が別れたこと、話しちゃって」
「麻友ちゃんに?」
「…そう。そしたら、あいつ、湊の実家まで行って」
「え?」
「家とか知らないのに、実家のある県まで行って、そこから湊に連絡して、来てるから会おうって押しかけたみたいで。それで俺、別れた理由も詳しくは聞いてないし、湊が振ったみたいなこと言ったせいで、火が付いたみたいで。湊連れてこっちに戻ってきてさ。俺、友達と飲んでたらさ、そこに二人で来て、お披露目会みたいなのして。驚いて…」
「そっか。すごく…好きだったんだ」
情熱的だと思った。だからはばかりなく私にあてつけて、すごく嬉しそうだった。
「いや、まぁ、麻友はそうだとして、俺、変だと思って…。湊に訊いたんだよ」
「…何を?」
「いや、それでいいのかって。俺…。絹ちゃんにも会ってたし、なんか納得いかなくて」
新太君はいい人だ。
「いいのに…」
「そしたら、押し倒されたって」
「え?」
「なんか、そういうこともうしてしまった後で…」
「あ…あぁ。そっか」とは口で言ったものの、胸が凍った。
「でも湊は絹ちゃんのことまだ好きだって」
「えぇ?」
「…でも麻友に手を出してしまって、どうしようもないって」
「…それって性欲に負けたってこと?」
湊が負けたのか、私が負けたのか、両方が負けたのか…。
「そういう…。こう…男って…抗えないところが…」と新太君も真面目に答えてくれる。
「分かった。でも…どうしてわざわざ新太君が来てくれたの?」
「ごめん。俺のせいだって。湊だって、しばらく実家でゆっくりするつもりだったって聞いて。俺がうっかり麻友に話したから、あんなことになって。生徒の中学生に付け回されてたって聞いたよ。心が弱ってるからって、絹ちゃんは距離を置いたのに…。俺のせいで…。あいつだって、正気じゃなかったと思うし…」
「うん。うん。でも別れてたから…私がどうこう言う筋合いないし…。合コンも行く予定あるし、もう気にしないで。本当にありがとう」
「え? 合コン?」
「うん。別に出会いとかじゃなくて、みんなで晩御飯食べに行くだけなんだけど。私、ちゃんと前向いてるから。ほんと大丈夫」
駅から人が降りてくる。改札が一瞬、混雑する。通り過ぎる人は私たちが別れを惜しむカップルに見えるかもしれない。でも今日、名前を知ったと言うぐらいの知り合いだ。
「…ごめん。本当にごめん。できれば…俺は絹ちゃんと復縁して欲しかった」
「えー。そうかな。湊は…そうじゃないと思うよ。あ、合コンのことは湊には言わないで。穏やかに過ごして欲しいし、あの麻友ちゃんがいればきっと大丈夫だと思うから」
「…ほんと、ごめん」と言って、改札口を通る。
私に何度も手を振ってホームに上がっていった。
麻友の情熱的な行動には驚いたし、私にはできなかったことだった。そして新太君はいろいろ教えてくれたけど、それにも何だか腹が立って来た。湊のそんなこと、聞きたくなかった。結局、湊は一時的にせよ、私より麻友の体を選んだのだから。
(性欲かぁ…)と私は呟く。
最後に私からしようと言ったのに断れたことを思い出すと、少し凹んだ。
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