第15話

風鈴


 私がバイトしている先に、一度だけ湊と一緒に来てくれた男の子が来た。暑い日中の昼間のせいか、客が一人もいない暇な時間だった。ようやくお客が入って来たかと思って顔を上げた時、向こうから声をかけられる。


「絹さん?」


「あ…。湊の友達…の…」


 名前を忘れてしまって、いや、聞いたのかすら覚えてない。慌てていると、にっこり笑って頷いてくれる。


「いらっしゃいませ。…こんなところまでケーキ買いに来てくれたの?」


「あ、うん。まぁ。バイトはいつ終わるの?」


「え? 後三時間くらいあるけど…。何か用?」


「あ、うん。ちょっと話が…」と言うから、私は店長に休憩をもらえないか聞いてみることにする。


 三十分だけ休憩をもらえた。もちろんバイト時間はその後伸びることになった。


「今、暇だし、いいよ。何? 彼氏?」と店長は暇な店内を見渡す。


「あ…知り合いが来てて」


「じゃあ、コーヒーおごるから。ケーキは買って」と言われたので、言われた通りにする。


 そして二人分のケーキ代を払おうとしたら、湊の友達が払ってくれた。暇すぎて店長がじきじきにコーヒーを運んでくれた。私は二人にありがとうございますと言って、席に座る。


「話って…湊のこと?」と座るやいなや聞いてみた。


「うん。実家に帰ってから…連絡してる?」


「ううん。…あの…私たち…別れたの」


「え? そうだったんだ。ごめん」と気まずそうに謝られる。


「湊から聞いてなかったの?」


「うん。それは聞いてないけど…。あいつに借りてた教科書を返すの忘れてて、それで連絡したらさ…」


 湊は学校を辞めることを検討しているらしい。


「え? 戻ってこないの?」


「だからびっくりして。絹さんなら何か知ってるかなって思って」


「あ…。うん。えっと、辞めることは知らなかったけど…」


「いや、別れてたって知らなくて。ごめん。こんなところまで来て…」と頭を下げられる。


 湊が大学を辞めるのなら、完全に復縁はない。私はその事実に打ちのめされて、何も言葉が出なかった。


「だから教科書返さなくていいって言われたんだけど…。あいつ、本当に君のことすごく好きって言ってたし…。なんで別れたのか分かんないけど…。学校まで辞めるってちょっと…」


 そこまで湊は傷ついていたんだ、と私は自分が情けなくなる。


「湊のこと…もっと支えてあげられれば良かった」と私は言う。


「そんな…。あいつが決めたことだから」


「でも…」


「いや。あの…彼女には言ったのかって聞いたら、歯切れ悪くて。…そっか。いや、俺、毎日のろけを聞かされてたからさ。ほんと、耳にタコができるかと生まれて初めて思ったくらい」と言いながら笑う。


 そうだ。湊は隠しもせずにみんなに私のこと言ってた。


「…私が…振られちゃって」


「え?」


 湊の友達は心底驚いたような顔をしていた。


「でもそれも私が悪くて…。湊は悪くないから」


「そんな…。あいつ、どうして」


「湊が辛いのに…私、逃げちゃって。支えてあげられなかったから。…教えてくれて、ありがとう。もし湊に連絡することがあったら…。私に会ったこと、言わないでくれる? もう私が…気持ちを引っ張るっこともないとは思うけど、湊優しいから…心配はさせたくなくて」と私は泣くのを必死で堪えた。


 泣いてたなんて知らせて欲しくない。


「…ごめん」


「いいの。大丈夫。私、本当に湊には良くしてもらったし、これからも幸せでいて欲しい。だから…会ったことは内緒にして。でももし…上手く嘘つけなかったら…元気に働いてたって言って」


「それも嘘になるけど」と湊の友達は遠慮がちに本質を言ってくる。


「ううん。元気になるから。今からめっちゃ元気に働くから。嘘にしないから」と無理に笑顔を作ろうとしたら、涙が零れた。


 涙が零れているけれど、精いっぱいの笑顔を作る。嘘をつかせたくないから、私は頑張ろうと思った。


「あいつが…好きになったの分かるよ」とどこかで聞いた台詞を言われた。


「そんな…。でも元気にバイトするから」とさらに無理やりな笑顔を続ける。


 そして湊の友達は帰って行った。暑すぎてお客さんが来ない店内を見回す。どうやって元気に働けばいいのか、とケーキの入ったガラスケースの水滴をダスターで力強く拭いていく。またすぐに水滴がつくのは分っていたけれど、私は水滴を拭きながら、湊の傷の深さを知って、自分の無力さに項垂れる。水滴が流れて落ちて行った。


 

 翠さんのお遣いでコンビニコピーで出力をする。ネットにあげたデータをプリントできるので、素晴らしい。私が見てもさっぱり分からないコンペの図面だった。


「出力取りに行く手間がほんと面倒だったから、助かる。お昼ごはん買うついでとかにしてたけど、今は絹ちゃんが行ってくれるから」と感謝される。


 それが嬉しくて、私はお遣いも嫌じゃなかった。お昼ごはん代も翠さんが出してくれるから、スーパーで食材を買って、今日も簡単な料理、焼きそばを作る予定だ。


 鈴音ちゃんならもっとおいしものを作れたはず…と思いつつも、翠さんは文句の一つも言わずに食べてくれる。


 図面を綺麗に丸めてケースにいれながら、湊の友達から聞いたことを思い出す。


 湊が学校を辞めることを考えているなんて、思いもしなかったし、そう思わせてしまうほど、追い詰められていたことがショックだった。


 私は連絡をしようかと考えたけれど、湊が結論を自分で決めるまではそっとしておこうと思った。




 毎日、日差しが強い。翠さんはどこからか朝顔の鉢をもらってきたようで、ベランダに飾っている。ふとスイカでも買って、おやつに食べたら気分もあがるんじゃないかと思った。スーパーに立ち寄って、焼きそば以外にスイカも買った。スイカの代金は自分のお財布から出す。翠さんに匿ってもらうような形で居場所を作ってもらえて、私は随分と楽になったから、少しはお礼をしたかった。


「ただいまです」と言うと、翠さんは携帯で仕事の電話をしているようで、私に向かって手をひらひらさせて挨拶をしてくれる。


 私は黙って、台所に行って、スイカを冷蔵庫に入れる。図面をケースごと渡して、お昼の準備を始める。


 焼きそばは簡単にできた。難しいものを作る時間も元気もないから申し訳ないと思いながらお皿によそった。麦茶もコップに入れる。


 電話を終えた翠さんが「わー。うまそう。ありがと」と言って運ぶのを手伝ってくれる。


「こんなんでいいですか?」


「いいじゃん。野菜たっぷり入ってるし。俺にしては健康的すぎる」


「え? 焼きそばですよ?」


「いつもコンビニでカップラーメンとかだから」


「まぁ…比較したらそうかもしれないですけど」


「充分だよ。ありがとう。もっと不健康でもいいよ。別に」と笑う横顔が綺麗で、私は思わず見つめてしまう。


「翠さん…。鈴音ちゃんに怒られちゃうよ」


「そうだね」と言って、こっちを見る。


「こら、健康に気をつけなさい」と私は鈴音ちゃんが言うであろう台詞を言ってみた。


「ちょっと違うな」と翠さんが何かを思い出すような顔で言う。


「…体…大切にして…下さい」と私は言った。


 きっと鈴音ちゃんならそう言うだろうな、と思ったからだ。本当はそうだろうなと思ったけど、何となく最初から言えなかった。


「うん。…そう言ってた」


 どういう気持ちでそう言ってたか考えると胸が苦しくなる。私は無言で席に着く。いただきますと手を合わせると、翠さんが「いつまで生きるんだろ?」と言う。


「え?」


「…なんか子供が大きくなるまでは…って思ってて」


 翠さんは奥さんとの間に子どもが一人いた。十一歳の男の子がいるらしい。


「え? 翠さん…結婚早かったんですか?」と思わず下世話な計算をしてしまった。


「あ…そう。学生の時に結婚した。籍だけは入れて。卒業の年だったから…」


「学生結婚」と私はその単語に何だか妙にテンションが上がってしまう。


「まぁ、向こうは二年先輩だったから…社会人だったけど」


「えー。年上女房ですか」とさらに声を上げてしまうと、冷静な翠さんの声がした。


「過去形だけどね」


「あ…ごめんなさい」


「いや、謝らなくても」と言いながら焼きそばを頬張る。


 翠さんにも大学生の頃があったんだ、と何だか不思議な気持ちになった。しかも学生結婚、その上、年上の人と出来婚なんて思ってもなかった。


 学生…、年上…出来婚…。


「え?」と思わず私は声を上げる。


「何?」


「つかぬことをお伺い…いえ。やっぱり…」


「ん? 何?」


「何でもないです」と私は麦茶を一気飲みした。


 避妊をきちんとしていたのか、気になったけれど、そんなことを聞くのは非常識すぎる。でももし避妊をしていても妊娠することがあるという保健体育の授業のようなことが現実に起こるとしたら、私も今後の人生において非常に貴重なサンプル例になるのではないか…と考えたけれど、聞けない。


 そもそも私には今彼がいないのだから、そういう心配は無用だ。湊は最初からちゃんとゴムを…いや、一回、なしでしようとしたこと…、と考えると思わず身震いしてしまう。


「どうかした?」


「あ、いえ…。大丈夫です」


 全然、大丈夫じゃないけれど、そもそも翠さんは違うことを言っていたはずだった。それを思い出そうとして、しばし考える。


「何? 今度は難しい顔して」


「翠さんが何か言いかけてたけど…思い出せなくて」


「あぁ…。子供が大きくなるまでは頑張らないとって話?」


「そう、そう、それです。でもそんなの分かんないじゃないですか。寿命なんて、明日来るかも分からないですし。大体モーツァルトもゴッホも三十代半ばで亡くなってるんです」


「ん?」


「だから、翠さんも…後一年で死ぬって気持ちで頑張ったらいいんです」


 翠さんは一瞬、固まって、その後、大爆笑した。なんでそんなに笑っているのか分からなくて、私は焦る。私は小さい頃、死ぬのが怖くて、何歳でみんななくなるのか考えたことがある。偉人で早く亡くなった人はそれだけで記憶した。


「いや…。絹ちゃん…。死んじゃだめですとか言うかと思ったら、後一年で死ぬからって」と笑いながら言う。


「だめ…です…け…ど。でもなんか偉人って早死しそうで」


「偉人じゃないよ」


「あんな絵を描けるだけで、偉人ですよ。きっと神様に偉人認定されてると思うんで、世に作品を残すように頑張ってください。…ところで翠さんは何歳なんですか?」と訊いたら、また笑われた。


 三十三歳だった。


「モーツアルトだったら余裕が二年ありますね」


「ゴッホだったら?」


「四年です」


 真面目に答えているのに、涙を流して笑っている。楽しそうに笑ってくれるから、私もまぁ、いいか、と思った。


 


 おやつに冷やしていたスイカを切っていると、翠さんが棚から風鈴を出してきた。


「あー、それ…」


 私が鈴音ちゃんと一緒にガラスに絵を描いた風鈴だった。デパートの催事で二人で作ったものだ。お母さんたちが買いものしている間に、私と鈴音ちゃんがその催事場で風鈴に絵を描いて待時間を潰していた。鈴音ちゃんは絵本のスイミーを描いていて本当に上手だった。私は出目金を描こうとして上手くいかなくて、黒い塊が付いただけの風鈴ですごく嫌な気持ちになった。それをうまい具合に黒猫と月に描きなおしてくれて、ご機嫌になって私はそれを持って帰ったのを思い出す。その風鈴はどこにあるのかも分からない。


「さすが鈴音ちゃん…。やっぱり上手」と言って、風鈴を眺める。


「久しぶりに飾ろうかな」と言って、ベランダの物干し竿に括り付ける。


 風が通ると明るい音がした。


 きっと鈴音ちゃんは毎年飾っていたんだろうな、と私は思いながらスイミーの風鈴を眺めた。


「かき氷とかもここで食べたら美味しいかも…」と言って、振り返ると、懐かしそうな目で私と風鈴を見ていた。

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