第14話

居場所


 翠さんに鍵をもらった私は足しげく通った。いない時は掃除をしたり、ご飯を作ったりして、勝手にしばらくぼんやりしてから帰る。ちょっとした物干し場所みたいなベランダとでもいうべきか、そういうスペースがあって、私はそこに置かれた椅子に座って暑い中、冷たいアイスティーを飲んだりして過ごした。裏庭みたいなところには木が植えられていて、緑が癒してくれる。


 湊は実家でゆっくりさせてもらってるだろうか。


 考えたら、私は湊の実家の住所もしらないから、暑中見舞いも残暑見舞いも送れない。湊も私の家の場所は知っているけれど、住所の番地は知らない。そしてメッセージが届かないということは、もう湊はすっかり私のことはないことになっているんだろうな、と少し涙がにじむ。復縁なんてできるくらいなら別れるはずないと分かっているのに我ながら未練がましい。携帯を一日に何度も確認してしまう。


 アイスティーが氷だけになったから、片づけて帰ることにした。翠さんにメモを残す。アイスティが冷蔵庫にあります。今日はそうめん作ってます。薬味のネギとショウガ、薄焼き卵も冷蔵庫にあります。


 ペンを置いて、クーラーを切る。


(私が来ることでクーラー代…かかっちゃう…)と少し申し訳なく思った。


 階段を駆け上がる音がした。


「あ」と思った時に鍵を回す音がする。


「よかった。間に合った」と翠さんが息を荒げてそう言った。


「え?」


「得意先から貴重なマンゴープリンもらったから」と四角い箱を見せてくれた。


「おかえりなさい」


 何気なく言った言葉に翠さんは一瞬、凍った。


「…あ、ただいま」


 私をじっと見てる。きっと私が鈴音ちゃんに見えているんだ、と思った。


「クーラー切っちゃって、つけますね」と私は目を逸らして、リモコンのスイッチを押した。


 鈴音ちゃんと何度繰り返したであろう「おかえり」の挨拶が私とすることで、翠さんを辛くさせてるんじゃないだろうか、と思った。


「…絹ちゃん。いつもありがとう。ご飯作ってくれたりして。帰ったら部屋がきれいで、ご飯があって、まるで小人と暮らしてるみたいで、ありがとうが言いたくて、今日は急いで戻ってきた。プリン食べて」と四角いケーキ箱から取り出す。


「翠さんは?」


「一個しかないから。絹ちゃん食べて」


「私は…大丈夫です。ケーキ屋さんでバイトしてて。ケーキには慣れてて」と言うと、翠さんが笑った。


「果物屋さんのケーキだから果物が美味しいんだけど」と有名果物店の名前を出す。


「えー。それは」と思わず私も声を上げてしまった。


 私の欲どうしい性格に思わず顔を赤くすると、翠さんは柔らかい顔で私を見ていた。


「半分こ、半分こにしましょう」と私はお皿を取り出す。


「…絹ちゃん。ごめん」


 振り返ると、切ない顔で言った。


「鈴音を見ている気持ちになる」


 知ってる。


「でも全然違うけど」


 分かってる。


「いいですよ。それで…翠さんが嫌じゃなければ」と私は容器を並べた。


 並べられた琥珀色のガラスのティーカップはきっと二人で使っていたものだ。


「もし辛いなら…来ないですけど」とマンゴープリンを取り分けようとした。


  スプーンで掬うもさっそくマンゴーが転がってしまう。


「…夢を見てるみたいで。鈴音が生まれ変わって…そこにいるみたいで。ごめん。そんなはずないのに」


 言ってから後悔したのか両手を組み合わせる。骨ばった長い指が綺麗で見とれてしまった。


「…私はここで一人でいるのも好きだし、お手伝いも嫌じゃないし…。翠さんが辛くないなら、来てもいいですか?」


「…辛くないよ」


「じゃあ、ウィンウィンっていうことで」と私は落ちたマンゴーを指でつまんで口にいれた。


 どろっと溶けて甘さと酸味が舌の上で混ざる。


「…どうして」と翠さんは言ってから口をつぐむ。


「え?」と聞き返したら、またマンゴーを落としてしまった。


「いや、俺がするよ」


 あまりにも不器用な私が見ていられなかったらしく、手際よくマンゴープリンを分けてくれた。


 美意識高いのか、綺麗に盛り付けてくれる。


「わぁ。美味しそう」と言うから、また笑われた。


 さすが一流果物店だけあって、果物が美味しかった。プリンにも果肉がたっぷり刻まれて入っている。おいしくて、あっと言う間に食べてしまった。目の前の翠さんは少しも食べていない。


「あれ? 美味しかったですよ? 甘いもの…苦手ですか?」


「ううん。よかったら、お代わりどうぞ」とすっと私の方へ押してくる。


「そんな。食べないともったいないですよ?」


「バイト代出せないからね…。だから、本当は食べて欲しくて」


 息を切らせて帰って来てくれて、一人で食べるのは忍びないと思った私の気持ちを推し量ってくれて、わざわざ取り分けてくれて…。


「鈴音ちゃんが…好きになるの…分かるなぁ」と声に出して言った。


「そう?」


「はい。だって…」


 優しい人だからと言おうとして、口が止まった。湊だって優しかった。それなのに上手くいかなかった。それはやっぱり私にもないところだけど、相手の気持ちに寄り添って考えることができるかということだった。


「かっこいいから」と私は簡単に言ってみた。


「へ?」


 翠さんは気の抜けたような顔を見せる。私は目の前に置かれたお代わりをすっと取って、食べ始める。


「おいしい、おいしい」を繰り返して。


 きっと翠さんは目の前にいる私を、もう取返しのつかない鈴音ちゃんにしてあげてるような気持ちでいるんだと思う。だから私はその好意を厚かましく受け取るべきだと思った。


 少しは私も大人になれたかな、と思いながら、甘い酸味を口で感じていた。


「そんなに美味しいなら、お店に食べに行こうか。バイト代の代わりに」


「え? 本当に?」


 喜んでみせる。私は鈴音ちゃんの代わりだから。ひと夏、鈴音ちゃんの代わりになり切ろうと思った。私は自分であることを止めた。それはそれで考えようによっては私も楽だった。



 奈々ちゃんと桃ちゃんと三人でカフェに来た。美味しいパンケーキでも久しぶりに食べようとなったのだ。フルーツがふんだんに乗ったパンケーキやら、チョコレートソースがたっぷりかかったパンケーキがテーブルの上を占領する。


「え? 何、そんなことになってたの?」と奈々ちゃんが驚いていた。


 湊と別れたこと、今日、話したからだ。


 案の定「合コン、合コン」と言われたけれど。


 でも二人に私にそっくりだった従姉妹の元恋人のところに行ってると話すと、二人とも言葉を失くしていた。


「家にいるのも辛いし…バイトもそんなにたくさん入ってなくて」


「いやいやいや。いくらなんでも」と奈々ちゃんが呆れたように言う。


「絹は何がしたいの?」と桃ちゃんに冷静に聞かれた。


「…何もしたいわけじゃなくて。居場所が欲しくて」


「そこじゃなくてもあるでしょう?」と奈々ちゃんが言うけれど、桃ちゃんがその勢いを止めた。


「絹…。ショックなのは分かるけど、それって…。どういう関係なの?」


「どういう? どうもないよ。その人は私なんか見てないし。私も…別に」


「分かった。夏休みだけのバイト先の人ってことね?」と桃ちゃんは確認する。


 なんだかよく分からないけれど、頷いておいた。


「ちょっと、桃。だめよ。この子…恋愛に関しては赤ちゃんみたいなんだから」と奈々ちゃんに言われる。


「大丈夫。二人をがっかりさせるようなことはしないから」と言うと、二人が揃ってため息を吐いた。


 とは言え、私はお母さんにも、そして鈴音ちゃんのお母さんには絶対に言えないことをしている自覚はあった。ただ一日、家にいるとお母さんの気遣う様子も辛いし、自分の部屋で携帯が鳴らないかじっとしているのも辛かった。




「で? 湊君からは連絡なし?」と奈々ちゃんがパンケーキをフォークにさしてマイク代わりに私に向けた。


「…ないよ。だって…別れたんだもん」


「そっか。でも後期にはこっちに戻ってくるでしょ? どうするつもりなの? 他人になっちゃうってこと?」


「…多分。元カレと友達ってなれないよね?」


「まぁ、無理じゃない?」と桃ちゃんは言う。


「でも原因は他所にあるなら、分からないよ」と奈々ちゃんは言う。


「絹は戻りたい? 湊君と友達になりたい?」と桃ちゃんもパンケーキをマイクにして私に訊く。


「…戻れるって思っちゃうから、考えなかったのに」とうっかり滲む涙が悔しくなる。


 湊がくれた指輪も、最後の夜も私に思いを残させるには充分だった。


「指輪…用意してたなんて、本気じゃない」と奈々ちゃんは言う。


 微かに期待してしまう自分がいて、それに疲れて、私は鈴音ちゃんになることを決めたかもしれない。


「もしさ…期待が外れたら辛いから、考えたくない。湊が地元で彼女作ってるかもしれないのに」と言って、すとんと何か納得できる自分がいた。


 連絡が全くないのはそう言うことかもしれない。


「みんな地元に戻ってるし…。夏にお祭りとか、そういう地域のイベントとかで仲間で会うってことありそうだしね」と奈々ちゃんが言うから、桃ちゃんがマイク代わりのパンケーキを奈々ちゃんの口に突っ込んでいた。


 連絡ないのは案外楽しんでいるのかもしれない。


「…だとしたら、…それで良い」


 私は冷たい自分の声を聞いていた。もう本当に湊のことを忘れようと思った。奈々ちゃんがお手洗いに言っている間に、


「自暴自棄になってない?」と桃ちゃんに訊かれる。


「自暴自棄?」


「今より痛い思いをしたくて、その人のところに行ってる気がする」


「そんなことないよ。だって、優しくしてくれるし、いない時も多くて…一人になれるし…」


「…そっか。でも、深みに嵌る前に忠告だけしておくね。その人は絶対に絹を好きにはならないよ」


 桃ちゃんは私の目をじっと見てそう言う。


「期待してない。そんなこと…。分かってる。私…」


「ごめん」と唇を噛む。


「ううん。心配かけちゃってごめん。大丈夫。…正直、馬鹿な事してるの分かってる。でも今、一人になって湊のことばかり考えてるの辛くて」


「死んだ人の代わりになんてなれないんだからね」と桃ちゃんに言われた。


「うん。分かってる。翠さん…私を通り越して違う人見てるの。でもその距離感が今は良くて。私のこと見ないでいてくれるから…楽で。お母さんとか一緒にいるのが辛くて」


「…分かる。私も辛いもん」と桃ちゃんは私の手を握った。


「桃ちゃんも来る? 小さなベランダがあるの。正方形の。そこに椅子とテーブルが置かれてて、一人でお茶してる。風の音とか、セミの声とか…鳩の声も聞こえるよ」


「行こっかな」と言って笑った。


 本当に桃ちゃんは私と違って強い。


「でも私、合コンの人ともデートしてるの。みんないい人。…でも好きって気持ち、ちょっと分からなくなって」


「…私もいまだに分からない」とため息をついた。


 奈々ちゃんがトイレから戻って「やっぱ合コン。失恋の一番の薬は新しい恋」と決め顔で言ってくる。私たちは思わず笑ってしまった。


 賑やかなパンケーキを片付けながら、私たちは相変わらず、笑ったり泣いたりして時間を過ごした。恋人といるのもいいけど、私は二人とこうして話している時間も好きだった。


「ありがとう」と言うと、二人から抱きしめられる。


「絹はもー。赤ちゃんだから。可愛くて仕方ない」と奈々ちゃんに言われたのは不服だけど。


「いいよ、いいよ。私も絹好きだし、いい匂い」と桃ちゃんにはそう言われた。


「私も二人好き」と言いながら、また涙を零してしまう。


 長い夏休みは始まったばかりだった。

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