第13話

辛い経験


 夏休みになった。私は桃ちゃんに湊と別れたことを言った。奈々ちゃんにはまだ言えなかった。言うと「合コン、合コン」と言われそうだったから。今はそんな気力がない。


 夏のうだる暑さの公園で、木陰の椅子に座っているとはいえ、膝裏がじんわりと汗ばんでくる。


「うん。辛いね」と桃ちゃんは本当に優しくいたわってくれた。


「すごく…辛くて。息するのもしんどい」と私は泣きごとを言った。


 桃ちゃんは立派に別れを告げられたというのに、振られた私は本当に情けない。


「絹は…だって、原因が他だったし…。別に嫌いあったわけじゃないし…」と言いながら、立ち上がった。


「でもね…。直接的にはその女の子が原因だったかもしれない。でも…駄目になったのは…したのは二人が原因だよ。湊も弱かったし、絹も逃げてた。だから…上手く行かない相手だったんだよ」


「…湊も私も…初めてだったし…どうしていいかなんか分かんなくて」と言いながら涙が出る。


「そうね。私も。初めての恋だったから…分からなかった。だから…次はさ。もっと大切にしてあげたいし、してもらいたい。私だって、なんだか胡坐かいてたところあるなぁって反省してたの」


 桃ちゃんは振り返って私を見る。


「悲しいけどさ。湊は相手じゃなかったんだよ。次の人に優しくしてあげるための…辛いけど大切な経験だったんだよ」と言う。


「…桃ちゃん。私、まだ湊のこと好きだよ」


「私だって、あのひどい男好きだよ。でもさ…一生の人を一人って決めなくていいよ」


「うー。まだ割り切れてないよ。私…」


「私だって…」と言って桃ちゃんが笑うから「桃ちゃんは考え直した方がいい」と私が言う。


「ほんとだねぇ。あんなやつまだ好きだって言うなんてねぇ」とのんびり言って、遠くを見る。


 心が手で触れるのなら、ケーキを切るように湊を思っていた部分を切ってしまいたい。


「ちょっと、暑すぎるよ。カラオケでも行く? ストレス発散に失恋ソングを歌おう」と桃ちゃんが言ってくれたから、私もその場を動けた。


 そして二人で交互に湿っぽい失恋ソングを泣きながら歌った。フリータイムでどっぷり歌い続けて、もう体力がなくなるまで歌った。


 友達の存在のありがたさが身に染みた。



 ただ大学生の夏休みは始まったばかりで、そして長かった。ケーキ屋さんのアルバイトのシフトはもう出していたので、今更増やしてもらうこともできない。もし誰かが調子悪いときは交代できます、と私は店長に伝えていた。何かしていないと湊のことを考えてしまう。


 湊から連絡は全くこなかった。実家でのんびりできてたらいいな、と思いつつ、私も連絡できなかった。

 


 何も聞いてこないけれど、うっすら気を遣われる家にいても辛くなる。私は翠さんのところに行くことに決めた。あの日から会っていない。別に知りたくもないだろうけれど、ことの顛末も伝えていなかった。


 ケーキ屋のアイスを手土産に電車に乗る。昼過ぎは電車も混雑していなくて、私は席に座った。ぼんやり車内刷りの広告を見ている。夏休みの楽しそうなプールの広告だった。



「あの」と声をかけられて、私は思わず息を飲む。


 目の前に美奈ちゃんが立っていた。


「…はい」


「湊先生…どこ行ったんですか?」


「え?」


「部屋にいないし…。塾も来てないし」


「…あの…私たち別れたの。だから…知らなくて」


「ほんとに?」


 実家のことは教えるわけにはいかなかった。


「うん。ごめんね」


「じゃあ、どこ行くつもりなんですか? これって湊先生の家に行く電車ですよね?」


「…たまたま知り合いがいて…」


「ふーん」と疑い深そうな顔をして私を見た。


「あのね…。こんなこと言うの…余計なお世話だとは思うけど。湊はあなたのこと、真剣に悩んで、どうにかしてあげられないかって思ってたの。でもできなくて、その思いと現実の間で苦しんでた。あなたが辛い思いしてるの、湊は分かってたから」


「そんなこと、どうでもいいです。私は湊先生が好きなだけだから」


「…好きって気持ちは大事だけど、困らせることをしちゃいけないと思う。本当にあなたが好きなんだったら…、好きな人を困らせちゃだめなんだよ。あなたは優しい湊に甘えてるだけじゃない?」


 そう言うと、美奈ちゃんは顔を歪めて「違う」と言った。


「…ううん。間違えてるよ。好きな人のことちゃんと考えてあげられることが本当に相手を愛するってことなの。…私もそれできてなかったから」


 美奈ちゃんは目をぎゅっと閉じて首を横に振った。私ができなかったこと、中学生ができるはずないのに、と私は自嘲した。


「でも…湊があなたのこと、心配してたのは本当だから」


 美奈ちゃんが涙をぽろぽろ零す。私も別れないと分からなかった。


「なんで…なん…あなたが…泣いてるのよ」と泣きながら美奈ちゃんが私も涙を零しているのを指摘する。


「…馬鹿だなぁって、自分で」と泣き笑いした。


 きっと美奈ちゃんは中学生でそれを経験し、私は大学生で経験したというまぬけっぷりで、だから彼女が大学生の頃には素敵な恋愛ができる。


 日差しが強い午後の電車で泣き合う二人は異様だった。次の駅で美奈ちゃんは黙って降りていった。


「頑張れ」


 私は美奈ちゃんの背中に向かって、そう自分に言った。



 小道を歩いて、二階の二番目のドアをノックする。突然行ったけれど、いないかもしれない。


「はーい」という声が聞こえて、引き戸が開いた。


「…あ、絹ちゃん」と翠さんは驚いた顔をする。


「こんにちは」と私はアイスを差し出した。


「入って。暑かったね」と言ってくれて、なんだかほっとした。


 部屋にはいろんな図面を乗せたテーブルがあって、その図面を少し重ねて、スペースを作ってくれる。そしてアイスを取り出して、そこに置いた。


「どうしたの? 夏バテ? やつれてるけど」


「…あの後、振られました」


「え?」


 私は翠さんに全部話した。アイスは緩んでしまった。



 緩くなったアイスをそのまま翠さんは食べながら「かわいそうに。二人とも…」と言ってくれた。


「男って弱いからね。すぐ駄目になる」


「…そうなんですか?」


「女性の方が強いよ」と言って笑った。


「…そうでもないです」


「わー、泣かないで」


 ティッシュを差し出してくれたけれど、慌てたせいで図面が落ちた。私がそれを拾いあげる。


「…それ、今、コンペに出すのを作ってて」


「コンペ?」


「マレーシアでする…産業展のパビリオンなんだけど。日本の企業の…建物」


「へぇ。こんなの作ってるんですね」と私は図面と翠さんを交互に見た。


「まぁ、仕事の合間にね。これは全くお金にならないから」


「…そうなんですか」と言いながら、私はその図面を見る。


 何がどうなっているのか分からないが、カラーのイメージ図は目を見張るものがあった。


「この絵も翠さんが?」


「うん、そう。イメージしやすいようにね」


「不思議…。なんかSFみたいな世界感ですね」


「そういうのアジアの人好きかなって。別に俺の趣味じゃない」


 流線形の小さな道路に近未来の小型の乗り物がパビリオンの中を通過している。


「…すごいですね。私…驚きました。建築家って言うから…」


「何でもするんだよ。ビルの設計図の確認とか、個人の家の設計とか…下請けでマンションの図面作ったり…。今は仕事を振ってもらってるから選り好みできない」


 かつては事務所を構えていたと言っていた。


「…翠さん。お手伝いします」


「は? バイト募集してないよ。お金ないし」


「バイト代、いらないです。私、今…何かしてないと潰れそうで。バイトもしてるけど…。旅行行くとかデートする予定だったから、あんまりシフトもいれてなくて、すごく暇で、暇で、辛いんです。コピーとか、お茶汲みとか掃除でも構いません。ここでお手伝いさせてください」と頭を下げた。


「…辛いなら…来てもいいけど。ほんと、何にも渡せないけど」


「いいです。何でもします。掃除でも買い物でも…」


 何より、私は翠さんの絵に惹かれた。この絵が実現できたら、いいな、と思った。少しでも役に立つなら、気持ちも晴れそうだった。


「じゃあ、好きな時に」と言って、翠さんは私にこの部屋の鍵を渡した。


「…え?」


「俺がいない時でも、辛いときは部屋掃除でもして時間潰して」


「はい」と私はその銀色の鍵を両手で受け取った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る