第10話
無愛の傷
授業が終わって、私は大学のカフェでレポートを書いていた。湊の授業が後一コマあるから、待っている間に終わらせようと思っていた。終わったら、一緒に映画に行く約束をしている。向かいの席で奈々ちゃんと先輩が仲良さそうに喋っている。合コンでは結局いい人が見つからなかったのかな、と思いながら、レポートに戻る。もうすぐ試験が始まるから、勉強もしておかなくてはいけない。できる時間にできることをしておこう、と私は集中して課題に取り組む。
何とか形になったかな、と思ってパソコンを閉じる。それを合図に奈々ちゃんと先輩がこっちの席に移動して来る。
「できた?」と奈々ちゃんが話しかけて来る。
「後少し手直しはいるけど…。何?」
「夏の旅行先、どっちがいいと思う?」と言って、スマホ画面を見せてくる。
「そんなの二人で決めなよー」
「だって、絹も湊君と行くんでしょ? 参考にさせて欲しくて」
「…まだ決めてない」
「早くしないといいところ埋まっちゃうよ」と奈々はスマホを操作して、宿の予約が埋まっていく様子を見せてくれる。
「もう。業者みたい」と私が笑うと、奈々ちゃんも「ばれた?」と冗談を言う。
先輩はにこにこしながら私たちのやりとりを聞いている。
「先輩はどこか…希望とかあるんですか?」と私は訊いてみる。
「うーん。どこでも…奈々となら楽しめるから…」
「もう。そういうところ。リードして欲しいって思うのに」と奈々ちゃんは頬を膨らませた。
「良いじゃん。奈々ちゃんの希望を優先してくれるんだから」と言うと先輩がちょっと照れた。
仲良さげな二人を見ると、何だか私まで幸せな気持ちになる。
「湊君だってそうでしょ? きっと」と奈々ちゃんも笑顔を見せる。
「…多分」
そんな話をしながら、二人は高原に行くのか海に行くのか悩んでいた。なんだかんだと奈々ちゃんは先輩と仲が良いんだな、と安心する。
「絹…」と湊の声がする。
「あ、来た。じゃあね」と私は荷物を片付けて、二人に挨拶する。
湊もこっちに来て、二人に挨拶した。
「あ、湊君、絹とどこ行くか考えてる?」
「うん。考えてるよ」と言うから私は驚いて湊を見た。
「え? どこ?」
「絹ちゃんが行きたいところ」と言うから、思わず三人で笑ってしまった。
湊が一人だけ不思議そうな顔をする。
「行こ」と私は湊の手を取って、二人にバイバイした。
「何? なんかおかしなこと言った?」と言う湊に、さっきの会話を教えた。
「えー。やっぱりそれは好きな子の行きたい場所に行くのが一番いいと思うんだけど」と湊も笑いながら言う。
「行きたいとこなかったり、逆にたくさんあったりしたらどうする?」と私が聞くと、湊は真剣に考えてくれる。
行きたいところがなかったら、好きな食べ物の名産地に連れて行ってくれて、たくさんある場合は一年に一か所ずつ攻略していく、と言ってくれる。
「じゃあ、北海道でもいいの?」
「いいよー。北海道を電車で旅行するロイヤルエクスプレスっていうのがあるんだって。あ、高っ」
「え? 何?」
「八十万…しかも完売」
「えー。誰が乗るの? そんな豪華な…」
「じゃあ、新婚旅行で行こっか」と湊が言うからドキっとした。
「…新婚旅行…には…ちょっと渋すぎるというか…」
「じゃあ…十年目とか?」
湊はずっと先の話をする。私はそれが現実感なくて、不思議な気持ちになる。でもそうなったらと考えると穏やかな気持ちになる。
「銀婚式は?」と言うと「銀婚式って…二十五年か」と湊が言う。
「その時はもう子育ても終わって、また夫婦二人になってるかなぁ」と私が言うと、湊が固まった。
繋いでる手を振ってみると「あ…こど…」と呟く。
「え? どうしたの?」
「絹ちゃん!」と駅前で大声で言われる。
「はい!」と思わず私も返事に力が入る。
「めっちゃ…嬉しい」
「えぇ?」
「抱きしめたい」
「え? ここで? だめ、だめ。映画、映画行くんでしょ?」
「じゃあ、映画は明日にしよう。絹ちゃんが可愛すぎること言うから…」
また湊に流される。私はデートがしたかったのに…と思いながら改札をくぐる。
「でも…。今日は…」と私は湊に話しかけた時、湊が立ち止まった。
あの美少女が立っていた。
「先生の大学見に来ちゃった」
学校帰りなのか制服のまま立っている。綺麗でかわいいストーカーだ。
結局、私は湊の部屋に行かなかったし、映画も行かなかった。ふわっと美奈ちゃんが近づいてきて、当たり前のように湊の反対側の腕を取った。私はなぜか手を離した。
「絹…」
「…送って行くんだよね?」と湊を見上げる。
「…ちょっと。今はまだ明るいし、一人で帰れるだろう?」と湊が美奈ちゃんに話しているが、美奈ちゃんは手を離さない。
「先生とお茶したい」
「お茶って…。するわけないよ。家に連れて帰るから。って言うか、こういうこと…困る」
「だって、先生に会えないと淋しい。家は誰もいないし」
言い合って結論が出ない二人に私が答えを出す。
「湊…私、帰るね」
「え? 絹…ちょっと」
怒ってないよという風に私は微笑んで、手を振った。そして小走りでホームに上がる。私はどうしたらいいのか分からない。
湊が悪いわけじゃないのに…。
電車が来たから乗り込んだ。ドアが閉まる瞬間にホームに上がる湊が見える。
「絹」と声をかけてくれたけど、後から美奈ちゃんが走って湊の腕を取って、私を見て微笑んだ。
目が少しも笑っていない口だけの笑顔で、私は二人から逃げた。それがいいのか悪いのか分からないけれど。
『ごめん』
しばらくするとメッセージが届く。
湊は少しも悪くない。
『ううん。また…今度』と私はメッセージを送った。
あれから夜に湊から連絡が来た。何度も謝ってくれて、今日は美奈ちゃんのお母さんにも話をしたと言う。でもあまり期待できそうな感じではなかったらしい。完全に無関心といった態度だったと言う。
――愛の反対は無関心だと言う。
「どうにかしようと思う」と湊は言っていたけど、どうにかなるのだろうかと私は思った。
それから試験が始まってから湊とは会っていない。メッセージでやり取りをしていたけど、まだ旅行先も決めていなかった。
試験が終わって、夏休みに入って湊から珍しく電話がかかってきた。いつもはメッセージで確認してから電話してくれるのに、何の前触れもなく電話だった。
「もしもし? どうしたの?」
「ごめん。急に…」
「なあに?」と私はわざとのんびりした声を出した。
それくらい湊の声が辛そうだったから。
「塾…ちょっと休ませてもらうことになった。夏期講習も別の人に頼んで…」
「え? 大丈夫?」
「うん。いや。ちょっと塾長も度が過ぎるって分かってくれて…」
「…うん。そっか」
「絹…。ごめん。旅行も…無理だ」
「いいよ。そんなの。湊、体もしんどいの?」
「なんか…すごく…辛くて。外に出るのもしんどくて。だから夏休みの間…実家に帰ることにしたから…」
湊がそこまでまいっていたとは知らなかった。テスト期間だったし、メッセージでは変化がないと思っていた。
「…湊。心配だよ。いつ帰るの?」
「割と…すぐ」
「そっか。じゃあ、明日、家に行くね。なんか美味しいもの作るね」
「絹…本当にごめん」
私は何もできなかったことを悔やんだ。
「絹? 今日、行かないの?」
今日は従姉妹の鈴音ちゃんの命日だった。
「あ、うん。ごめん。今日は…どうしても今日、湊に会っておきたくて」
「湊君とデート?」
「…うん。まぁ…」
「どうかしたの?」
「なんか生徒に懐かれて…。ちょっとストーカーチックな行動されてて」
「…え? 大丈夫なの? うち連れてきたらいいじゃない」
私は「そうだね」と言った。
「じゃあ、お母さん、向こうの家にも寄って帰るから。もし湊君連れてくるなら連絡して」と言ってくれた。
「分かった」
そうだ。うちに来ればゆっくりできるかも、と思った。他人の家で緊張するかもしれないけど、美奈ちゃんはうちの家までは知らないだろうし、と思いながら出かける準備をする。
湊の駅に着いた時点で
『今、駅についたから行くね』とメッセージを送った。
今日は暑いので駅前のスーパーで冷しゃぶうどんを作ろうと材料を買って、湊の家に向かう。途中の小道を覗いて通り過ぎる。翠さんは夕方にお墓に向かうと言っていたから、まだ家にいるかもしれない、とそんなことを考えながら過った。
湊のマンションの下でオートロックを開けてもらおうと部屋番号を押そうとしたら、中から人が出てきたので、私はそのまま押さずに入った。エレベーターで五階に上がる。
呼び鈴を鳴らそうとして、扉が少し開いているのに気が付いた。私が来るのを分かっていて、鍵を開けてくれたのかな、と思ってドアを開ける。
「湊、着いたよ」と言うと、奥から湊が慌てた様子で現れた。
靴を脱ごうとしたら、女性用のサンダルがあった。
「…湊…」
「絹…。絹が…来てくれたって…思って」
湊のすぐ後ろに美奈ちゃんが立っていて、下着姿だった。
「先生ー。続きしよ」
私は荷物を手から落とした。
「絹、待って」と言う湊の背中から美奈ちゃんの手が肩に張り付いて、こっちを薄ら笑いを浮かべて見ている。
白い肌が光っている。
「まだキスしかしてない」と美奈ちゃんが言った。
湊の顔が凍っている。それが何を意味しているのか分かりたくなかった。
「あ、あ…今日は…」と私は頭を下げて、出て行った。
何が起きていたのか分からない。続きってなんの続きだろう、と思いながらエレベーターに乗り込む。湊が追いかけてきたけれど、閉まるボタンを押していた。
マンションから飛び出すと、駅に向かって走り出そうとしたけれど、気持ち悪くなって、吐きそうになる。反対側のコンビニに向かうことにした。喉がからからで、どこかに座りたい。
湊の部屋で何が行われていたのだろう。いつもは携帯が鳴るのに、今日は静かで、それも怖かった。
コンビニで水を買って、イートインコーナーの椅子に座る。
冷たい水が汗をかいている。喉が渇いているけれど、蓋を開ける力が出なかった。
どれくらいそこにいたのは分からないけれど、一時間は経っていなかった。私はぼんやりと立ち上がり、水の蓋をようやく開けて、飲んだ。
そして駅に向かい、私は従姉妹のお墓に向かった。
翠さんに会うためだった。
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