第9話
雨上がり
いい匂いで目が覚めた。出汁の香りが漂っている。
一瞬、どこにるのか何時なのか時間と場所の感覚が分からなくなる。慌てて起き上がって、スマホを見ると八時を過ぎていた。
「うどん、作ったけど、食べる?」
「…はい」
私は寝たことで多少元気が良くなって、起き上がった。
「卵しか入ってないうどんだけど」と言われて、細ネギと卵が入っているうどんを渡してくれた。
「いただきます」と言って、手を合わせると、あの人がまた笑った。
「…あの…何か?」
「ううん。似てないって思って」
「似てない?」
「顔は似てるけど、鈴音とはやっぱり違うなって」
「…鈴音ちゃんは…私より美人でしっかりものだったから…」
「…そうかな。意外と抜けてたよ」
そう言った声が柔らかくて、私は思わず顔を上げてみた。何もかも捨てて従姉妹と一緒になった人。家族もお金も失くして得た時間は短すぎた。
「そっか。私、あんまり会うことなかったから。小さい頃は一緒にお出かけとかしたんだけど」
「…従姉妹なんてそんなもんだろうね」と言って、うどんをすする。
優しい味わいで、黄色い透明なスープだった。
「…あの…出身が…」
「ん?」
「スープの色が薄いから」
「あぁ…。そっか。関西。奈良出身で。鈴音にも言われた。…名前」
「え?」
「君の名前は?」
たかだか名前を聞かれただけなのに、初めて、私に関心を持ってもらった気がした。
「中川絹です。シルクの」
「…結構、古風な名前だな。でも合ってる」
「あなたは?」
「俺は…
「すい? さん?」
「翡翠の翠」
なんとなく朧気に分かるけれど、書けと言われたら難しい字だった。だから黙っていたら
「なんか、感想ないの?」と言われる。
「感想?」
「かっこいい名前…とか、なんとか」
「あ…。はい。いいと思います」と慌てて言って、俯いた。
意外とおしゃべりな人なんだな、と思いながら、うどんを食べる。
「鈴音は…学生でアルバイトに来てくれて…すごく話しかけてくれて」
「え? 鈴音ちゃんが?」
「…そう。うるさいくらい話しかけてくるから、ランチに誘って、そこで話を聞こうと思って。そしたら…ランチだと全然喋らなくて、困った」
「鈴音ちゃん、割と内気で、本ばかり読むような…イメージだったから…驚いた」とびっくりする。
「なんで仕事中ばかり話しかけてくるのか聞いたら、緊張してたんだって」
「え? 緊張?」
「男の人苦手って言って…。でもインテリアデザイナーになりたくて、建築事務所のアルバイトに来たみたいだけど。似てるようで仕事、全然違うんだよね」と笑った。
「あ、確かに。苦手そうでした。お兄ちゃんにいじめられてたみたいで」と言うと、翠さんはくすくす笑った。
「そう。俺、年上だから、一番苦手って言われた」
鈴音ちゃんはそれでも好きになったんだ、と感慨深い気持ちになる。
「じゃあ…幸せだったのかなって思います。鈴音ちゃん」と私が言うと、うどんを食べるのを止めて、私の顔をじっと見た。
口を数回ぱくぱくさせて
「なんか、顔似てる人に言われて、少し嬉しかった」とぎこちなく笑った。
「顔似てる人って…」と私は内心思ったことが口に出ていたようで、自分ではっとした。
「あ、ごめん」
「いえ。こちらこそ。…あ、もうすぐ命日ですけど…」
「俺は…いつも夕方に行くんだ。鉢合わせしたくないから」
「…そうですか」
「申し訳なくて。頑張って稼いでって思ってたんだけど…。そうしている間に病気が進行してるなんて。俺が殺した」
ずっとそう思って今も苦しんでる。
慰めの言葉も出なくて、私は無言でうどんをすする。透明なスープなのに味がしっかりあって、美味しかった。
「関西風のうどん、美味しいです」
「そりゃ、良かった」と微笑んでくれた。
うどんを食べると、少し落ち着いて、私はお暇することにした。
「彼氏…いるんだから、もうここに来ちゃだめだよ」と翠さんが言う。
「…あ。はい」と私は頷いた。
「それに…ごめん。やっぱり…俺が思い出すから」
帰れって言われたのはそう言う事だったのか、と私は納得した。
「じゃあ…」と言ってドアを開けられる。
「ありがとうございました」
「気を付けて。駅まで送りたいけど…」
「いいです。大丈夫です」と言って、私は頭を下げた。
私は湊に「家に帰ります。出血は月のものが来てたから。気にしないで」とメッセージを送った。言わないことは嘘になるのだろうか。
湊のあの時の気持ちが少し分かった。雨は止んで、道は濡れて光っている。
翌日、雨上がりで空気が澄んでいる。大学に行って、授業前に湊と待ち合わせた。会うなり頭を下げて来る。
「ごめん。この前…ごめん。あの…あんな風にしてしまって…」
「ううん。なんか分かるから。湊が優しいのも、辛かったのも分かるから…」
「島田のこと…塾長に話したんだけど…」
そう言うことは割とあるようで、担当を交代しよう、と言ってくれたらしい。それでも美奈ちゃんは出口でずっと待っていたらしい。
「湊が…唯一の居場所ってことなのかな」
「…家。何回か送りに行ったんだけど…。結構な家なのに、灯りがついてなくて、真っ暗で…」
優しい湊はきっとほうっておけない。
「…うん。分かる。かわいそうだよね」
「でも…絹とは離れたくない。この間はごめん」
湊の手が震えている。
「私の方こそ、ごめん。…支えきれないみたいな…こと言って」
「絹ちゃん…。好きなんだ」
苦しそうな声で言われる。
目の前のこの人を私は傷つけずに手を差し伸べることができるのだろうか。あのカレーを作っている時は本当に辛かった。耐えれるのだろうか。私はどこか中途半端で、きっといつか傷つける気がしたけど、それでも手を出してしまった。
そこまで分かっているのに。
「旅行…行こ。前に言ってた…。夏休みだし…」
「絹…ちゃん」
湊に対して、愛なのか、同情なのか、両方なのか分からない。それでもここで彼を振り切れない自分が一番弱いことだけ分かる。
桃ちゃんが「私、頑張ったよ」と言った言葉が蘇る。私は少しもそうじゃない。
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