第8話

雨の降る街で


 月曜の夜になって、私はじっと縮こまっていた体を起こした。体がだるいけれど、明日は大学に行こうと思った。夜は静かで、私は自分の体を手でなぞった。湊が言ってくれたすべすべの肌を実感したかった。湊は本当に私を愛してくれていたのだろうか。初めての恋人だからちょっと大げさな気持ちになっていたのかもしれない。そう思うと辛くて、手から力が抜けた。階段を上がる音がする。


「絹? どう?」と言いながらお母さんが部屋に入ってきた。


 急に電気をつけられて眩しくて目を閉じる。


「熱は下がった?」と額に手を当てられる。


 そして「まだ湊君と喧嘩してるの?」と訊かれた。


「え?」


「なんか…お花を持ってきてくれたの。でも絹が熱だして寝てるからって言ったら帰って行ったけど…」


「そ…っか」


「どうかしたの?」


「ううん。…何でもない。明日は学校に行く。もう少し寝てもいい?」


「いいけど…。お花リビングに飾ってるから」


「うん」と言って、私はまたベッドに潜り込んだ。



 何も考えたくない。湊は悪くない。私は…どうしてあの人のところに行ったのだろう。


 従姉妹のお葬式の夢を見た。私はあの人を見ていた。暑い日差しの中、会場の外でじっと立っている。影もなくて、アスファルトが揺れている。私の首から汗が垂れた。


「絹」とお母さんに呼ばれて、私はその場を離れた。


 私はあの時、声をかけたかった。でもなんと言えば分からなかった。ただ陽炎の中、喪服で立つあの人が心に残った。


 夜中に目が覚めて


「帰れ…って」と私は呟いた。




 朝が来たので、私はシャワーを浴びようと降りていくと、お父さんがいた。


「…絹」と新聞から目を離さずに呼ぶ。


「おはよう」


「あいつと付き合うのはどうなんだ?」


「え?」


「あいつと付き合ってから、ずっと変だぞ」と言って新聞を畳んでトイレに行った。


 変ということはよく分からなかったけど、心配はされていたのだと思った。そのままシャワーを浴びて、冷蔵庫からトマトジュースを取り出して飲む。お父さんはもう出勤した後だった。


「おはよう。具合はどう?」とお母さんが降りて来る。


「うん。もう大丈夫」


「何か食べる?」


「…ゆで卵」


「分かった」と言って、お母さんはゆで卵さえも用意してくれる。


「お母さん。私、変?」


「変って何が?」


「お父さんが湊と付き合ってから変だって」


「あぁ、それはお父さんは絹が誰と付き合っても反対だもの」と言ってスマホでタイマー操作していた。


 リビングにマリーゴールドの花が花瓶に飾られている。




 大学に行く電車でスマホの電源を入れる。窓から曇り空が広がっているのが見える。朝から蒸し暑い。起動すると、メッセージがいつもより多く届いていた。湊からも桃ちゃんからも、奈々からも来ていた。心配してくれるメールばかりだったが、桃ちゃんが報告、と書いているメッセージがある。気になるからそれを読んだ。


「報告。あの後、話し合って別れました。絹、ありがとうね。学校来たら、また話を聞いて」


 私はスマホを落としそうになった。桃ちゃんは彼氏を好きだと言っていたのに…と私が焦ってしまった。彼氏だって、慌ててメッセージを送ってきたのだから嫌いになったわけじゃないはずだった。好き同士でも別れてしまうことがあるなんて…と私は怖くなる。


 湊からのメッセージには「せっかく来てくれたのに、ごめんなさい」「具合悪いって聞いたけど、大丈夫?」「ゆっくりしてね」「明日は大学来れそう?」とかたくさん入っていた。


「もう大丈夫」とだけ返信しておく。


 すぐに「良かった。ごめんね。今日、ランチ一緒に食べよう」とメッセージが届く。


「うん」と送る。


 湊は少しも悪くないのに…と思って目を閉じた。



 大学に行くと、桃ちゃんと顔を合わせた。


「…絹、具合どう?」


「あ、大丈夫。ちょっと疲れて熱が出ただけ…。それより桃ちゃん、あの後、別れ話になったの?」


「…うん。顔見て話して…。文句言ってやった」と両手を腰に当てて、元気よく言う。


「え? 文句」


「そりゃそうじゃん。メッセージ一つも打てない男と付き合ってられっか」と桃ちゃんはわざと悪ぶって言う。


「そうだけど…。好きって言ってたのに」


「でもね。慣れ合いより、愛された方が幸せじゃない」


 私が聞き返そうとした時、二、三歩先に進んで、桃ちゃんが両手を上にあげて


「さぁ、次行くぞ、次。男はたくさんいるんだ」と言う。


 元気にふるまっているだけなのか、本当に元気なのかは分からないけど、私は桃ちゃんがそうしたいのなら、それに合わせることにした。


「その意気だー」と私も両手をあげた。


 両手を下した桃ちゃんは私に振り向いて


「絹…。私、頑張ったよ」と微笑みながら、でも涙を堪えたような目で言った。


「うん。頑張った」と、私はなぜか桃ちゃんに抱きつく。


 堪らなく胸が痛い。


 きっと桃ちゃんはまだ好きで、でも別れを選んだんだって思ったから。重たい空から雨が降ってくる。桃ちゃんの目から涙が零れた。私は雨と玉ねぎに感謝する。涙がごまかせるから。



 ランチの時間いつもの待ち合わせ場所に行くと、湊が先に待っていた。雨がさわさわと木々を濡らしていた。私たちは校舎の庇のある裏口にいた。


「ごめん…」とやっぱり悪くないのに謝る。


 私は何て言っていいのか分からなくて「カレー…おいしかった?」と訊いた。


 湊の目が大きくなって「美味しかったよ。今朝も食べた。ありがとう」と言う。


「あの子も食べた?」


「…カレー嫌いだって。白ご飯だけ食べて、送って行った」


 本当に嫌いなんじゃなくて、彼女の作ったカレーなんて食べたくなかったのか、と思った。


「…良かった」


 彼女がカレーを食べなかったことも、ちゃんと家に帰ったことも全部良かった。


「あの子のこと…どうすればいいのかな?」と私は湊に訊いてみた。


「どう…って」と湊は言葉を濁す。


 きっとあの子はまた湊の家に来る。湊はほおっておけない。


「湊…私たち、しばらく会わないことにしよう」


「え? なん…」


「やっぱり辛かったから」


「あ、ごめん。でも…もう帰ってもらうし…」


「ううん。湊が一生懸命、塾のことしてるの知ってる。私は応援してあげたい。でも今のままだと…それも難しい」


「…絹。バイト先、変えるよ」


「違うの。そんなこと望んでない」


「俺だって、絹と別れてまで…」


 きっと後悔する。私も湊も。


「別れないよ。少し…距離を置くだけ」


「メッセージは? 送ってもいいの?」


「いいよ。返事しないかも…だけど」


「絹」と言って、手首を握られる。


 強い力で私は少し痛かったけど、胸も痛む。


「そんなの嫌だ」と湊が強く言う。


 雨のカーテンのせいで、私は動けなかった。



 夕方になっても雨は降り続いていた。あの後、私は湊の部屋に行って、大学もさぼって、ランチも食べずに抱かれていた。窓に当たる雨のしずくを眺めながら、私は胸が苦しかった。



 距離を置く提案を拒否されて、強く手を握られて、そのまま駅まで黙って歩くから、私もそのまま黙ってついて行った。電車の中でも無言で、湊が怒っているようにも、哀しそうにも見えた。雨で街が煙るのを見ながら、湊の部屋に向かっていることも分かっていたし、部屋にいったら、何をするのかも分かっていた。


 だから乱暴に服を脱がされた時も、無抵抗だった。何だか私が受けなければいけないような罰の気がして。


 湊が私を好きでいてくれるのはすごく分かる。


 優しい湊がこんな風に私を扱うのも辛い。


 何がどうしてこうなったんだろう、と私は思いながら、湊の汗も熱さも激しさも受け入れる。セックスで何が分かるのだろう。私は自分が空っぽの容器で、そこに何かを流し込まれている気はするけど、何も分からない。


「ごめん」


 突然、動きが止まった。


「出血してる」と湊が言った。


「…あ…大丈夫」


「大丈夫じゃないよ」と湊に頭を抱えられる。


 時計を見ると五時前だった。


「湊…塾」


「うん」とは言うものの、私の頭を抱きしめながら動かない。


「…湊先生。生徒が待ってる」


「絹…。ごめん。好きなのに…」


「ほら、行って」と私が身じろぎすると、湊は体を離した。


「…絹。しばらく休んでて。帰ったら家まで送るから」


「…分かった。頑張ってね」と私は言う。


 用意する湊の背中を見ながら、私は何だかかわいそうに思えてきた。


「絹…。本当にごめん」


「もういいから。先生が遅刻したら洒落にならないよ」


 無理に送り出して、私はベッドの中で横たわる。湊の匂いは本人がいなくなってからの方が強く感じられた。お腹が痛い。トイレに行くと、出血が激しかった。今日はナプキンを持っていなくて、トイレットペーパーを畳んで挟んだ。


「コンビニに買いに行こう」と思って、服を着て外に出る。


 雨はまだ降り続いているけれど、随分弱くなっていた。出血が気になって、歩くのにも気を付ける。生理になる日だったかな、と先月がいつだったか考えて、少し早い気がしないでもないけれど、なってもおかしくはない時期だったから湊が謝ることではない。


 いつも湊は悪くないのに…。


 ため息をつく。



 向こうからあの人がコンビニの袋を手に歩いてくる。コンビニ帰りだったんだ、と思ってUターンしようとした瞬間、ドロッとしたものが溢れて太ももをゆっくりと伝っていく。私は動けないまま、通りすがられることを待った。きっと青ざめた顔で立ちすくんでいたのだろう。あの人は私の方を見て、通りすがったかと思ったら、立ち止まった。


(このまま去って)と思いながら、太ももを伝う血液が下へ下へ降りていく感触を感じる。


 あの人は立ち去らずに私に後ろから声をかけた。


「どこか…具合が悪いの?」


 私は振り返られずに足をぎゅっと閉じる。今日はミニスカートだった。少しも動かない私を見て、


「大丈夫?」と回り込んで来た。


 あの夏の日、ずっと立ち続けていた人と初めて対面した。血がするりと落ちていく。


「だ…い」


 見られたくなくて、さらに力を入れようとした時、また内側からドロッとした血液が出た。私はお腹も痛くて、気分が悪くなる。


「ちょっと」と言う声が聞こえたけど、私はその場で蹲ってしまった。


 足の血液が見える場所に流れてて、あの人は自分のカーディガンを脱いで拭いてくれた。黒色なので汚れが目立たなくて良かったとそんなことを考えていた。


「家、近くなの?」


 首を横に振ると、カーディガンを私の腰に巻いてくれて、そしてしゃがんで背中を向けられた。


「え?」


「ちょっと家来て」


「え? あ…」


「君、前も家の前に来たよね?」


「…はい」


「家に…生理用品あるから」


「え?」


 ともかく私はこのままコンビニに行くのも気が引けて、その背中に頼った。傘は私が差したけれど、コンビニの買い物袋は持ったまま、私をおぶる。ビニール袋が足に当たっていた。


 あの小道をおぶわれて歩く。霧のような細かい雨が風で木に当たってさわさわと優しい音になる。アパートの前で降ろされた。


「階段は危ないから自分で登って」


 黙って着いて行く。初めて従姉妹が暮らしていた部屋に入った。


 小さな和室が二間あって、手前に大きなテーブルがある。そこにはパソコンといろんな文具が置いてあった。


「風呂…入ってきたら。生理用品、ちょっと待ってて」と言って、押し入れを開ける。


 ちらっと見えた押し入れに従姉妹の名前の書かれたプラスチックケースがあった。そこからピンク色の袋を取り出した。


「これ、使って」と言われたので、お礼を言う。


「あの…タオル…」


「あ、ごめん」とまたプラスチックケースからタオルを出して渡してくれた。


 お風呂場を借りる。シャワーのない浴室だけがあるタイプで洗面器にお湯を入れて足を洗い流す。下着も洗いたかったけれど、汚れているけれど、そこにナプキンをつけるしかない、とそのまま使うことにした。足だけ洗って出た。


「ありがとうございます」


「…もう大丈夫?」


 帰れと私に言った人なのに、助けてくれた。


「はい。お世話になりました」


「…まだ顔青いけど。温かいものを飲む?」


 まだお腹が痛くて、正直辛かった。


「座って」と言うと、電気ポットに水を入れた。


 私は大人しく座る。奥の部屋はブルーのソファが置かれているだけで、どこで寝ているのだろうかと思った。でもあまり人の部屋をきょろきょろ見回すなんて行儀が良くないと思って、私は膝に手を置いて、俯いた。


「…鈴音の…知り合い? 姉妹はいなかったはずだけど…。兄がいたっけ」


「…鈴音ちゃんの…従姉妹です」


「あ、そうなんだ。だから…似てるんだ」


「昔からそっくりって言われてて」と私はまだ俯いたまま話す。


 お湯が沸いたのか


「ココアがいい? コーンポタージュ?」と訊かれた。


 お昼も食べていなかったことを思い出して「コーンポタージュ」と言うと、少し笑った。


 温かいコーンポタージュは私の空っぽの胃を満たしてくれる。


「…ありがとうございます」


 お腹の痛さが激しくなってくる。


「…あの…少しだけ…横になってもいいですか?」と言うとソファで寝ていいと言われる。


 私は青いソファに横たわり目を瞑るとそのまま意識がなくなった。

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