第7話

食べないカレー


 道端で三人固まっているのもなんだからと、とりあえず、湊の部屋に入った。


「わー。先生の部屋ってシンプル」と目をきらきらさせながら島田と言われた女の子は言う。


 まるで私が目に入っていないようだった。


「…ごめん」と私に謝る湊に私は「カレー作るね」としか言えなかった。


 小さなキッチンでカレーを作るために私は包丁とまな板を出す。その間、女の子は湊にじゃれていた。


「…島田。何しに来た? っていうかGPS…とかって」


「先生、知ってるでしょ? この間、美奈のうちに来たから分かったでしょ? GPSはお父さんの浮気場所特定にお母さんが買ったやつ。もう使ってないみたいだから。先生の家を分かるかなーって。案外近くまでしか分からないんだね。ぐるぐる歩いてたら、先生来たからラッキーだった」


「…ラッキーって」


「ってか、先生、鞄に入れられても気が付かないんだ」とくすくすと笑う。


 ジャガイモの皮を剥きながら、聞きたくなくても耳に入ってくる会話で、彼女の家庭が破綻していることが分かる。


「帰るぞ。…送るから」


「えー。今誰も家にいない。淋しい。ご飯、一緒に食べたい」と湊の肩に張り付く。


「…カレー食べたら…送る」と湊がため息を吐く。


 湊が私を手伝おうと立ち上がると、美奈も立ち上がる。


「包丁…一丁しかないから」と私は断った。


 湊は仕方なくテレビをつけた。私はこんなことだったら、もう下準備された野菜を買えばよかった、と思った。地味にジャガイモもニンジンも皮を剥くのに時間がかかる。玉ねぎの茶色い薄皮も手で上手く剥けない。引っ付いて綺麗にはがれてくれない。まな板で玉ねぎを切ると、涙が零れた。玉ねぎのおかげで涙が出ても不思議じゃないことがありがたかった。


 テレビの雑音は少しも助けにならないほど、湊に甘える声が響く。


 無言で肉と玉ねぎを炒める。聞こえてくる美奈の嬉しそうな笑い声。何だか湊のアルバムを見せてもらっているようだった。


 お腹いっぱいで食べれないカレーを私は作っていて、彼女は湊とアルバム見て…でも家庭環境が悪くて…年下で…湊の生徒で…可哀想だから…と菜箸でぐるぐるお肉と玉ねぎを混ぜながら考える。玉ねぎが透き通るまで、ぐるぐる同じことを考える。まだジャガイモやニンジンを鍋にいれなければいけない。私は無言で作り続ける。


「…水」とポット型浄水器の水を鍋にいれる。


 火にかける。浄水器に水を入れる。


(何してるんだろ。二人のためにカレー作ったりして)


 明るい笑い声と話し声が小さな部屋だと何もかも聞こえてくる。私はまるで透明になった気分だった。灰汁が出てくるのを掬って、捨てていると、もう帰ろうと決めた。カレーを作ったら帰ろうと。


「湊…ご飯は…あるの?」


「あ…」と言って、立ち上がろうとすると、また女の子も立ち上がる。


「お米…炊く?」と私は訊く。


「それくらいはするから」と湊が狭い台所に来ると、女の子もついてくる。


「あ、鍋見てて。コンビニでご飯買ってくる。チンするやつ」と私が言うと湊が買いに行くと言って、女の子と一緒に出ていった。


 二人がいなくなって、ほっとした。でも何だか私は泣きたくなる。かわいそうな女の子に湊は同情して優しくしているだけなのに、どうしてこんなに悲しい気持ちになるのか、と思った。


(早くニンジンが茹で上がって欲しい)


 熱心な先生なんだから、そういうこともあるだろう、と言い聞かせる。コンビニからなかなか二人は帰ってこない。


(桃ちゃんは上手く行ったのだろうか)と思いながら鍋を眺める。


 ようやく煮えたので、ルーを入れた。ケチャップやソースを適当に追加して出来上がった。私はメモを書いた。


「召し上がれ」


 それだけ書いて、湊のマンションから出た。鍵は開けているけれど、オートロックだし、湊は財布を持って行ってるし、そろそろ帰ってくるはずだ。


 私は歩きながら、泣きたくなった。社会的弱者だと分かっているのに、優しくできない自分も情けない。湊が優しいのも分かっている。いい先生であろうと頑張っているのも知っている。それなのに、今の気持ちを抱えている自分が嫌になる。


 もう夕暮れに差し掛かっている。空もアスファルトも青く染まっていた。私はふらふらと小道を歩く。何がしたいわけじゃなかった。ただ何となく、あのアパートを眺めたかった。二階の二番目の扉の横の窓に明かりがともっている。


 あの人がいるんだと分かった。


 あの人は従姉妹と暮らして幸せだったのだろうか、と思った。


 それとも従姉妹を病気で亡くしてしまったことを後悔しているだろうか。


 そもそも従姉妹と恋をしたことを悔やんでいるだろうか。


 ただの興味本位で聞いてみたかった。


 ぼんやり眺めていると、扉が開いてあの人が降りて来た。私は動けず、ずっと立っていた。目が合うだろうか、と思っていると、真っ直ぐこっちに近づいてくる。


 私は従姉妹にそっくりだから、驚かれるだろうか、と思っていたら、私の目の前に立って


「帰れ」と言う。


 聞き間違いかと思った時、もう一度、はっきり言われた。私はその言葉が引き金になったみたいに、飛び出して、駅に向かった。青い空はもう暗くて、お店の電灯が光を投げかけている。



 突然、きつく命令されたことがショックだったし、私はあの人について、楽観的に考えていたことが間違いだと知らされたようで、電車に乗ったら体が震えた。携帯が鳴っているけれど、それに出ることもできず、電源を切った。



 どこかであの人は私を従姉妹のように思うんじゃないかと甘い想像していた。それが全く違っていて、恥ずかしさと恐ろしさがせりあがってくる。


 その日、熱を出した私は翌日、大学を休んだ。携帯はずっと電源を入れていない。

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