第11話

うらぎり



 まだ夕方には早い時間だった。私は電車で鈴音ちゃんのお墓があるお寺に向かう。お母さんたちはもう家に戻っているだろう。あるいはどこかで鈴音ちゃんの家族と一緒にお茶でもしているかもしれない。


 湊は美奈ちゃんを怖がっていたと思っていたけど、何をしていたんだろう、と思う。強引に押されて浮気をしたのかな、と思ったがふわふわして何も考えられない。美奈ちゃんの白い肌とレースの下着がちらついてしまう。女の私ですらドキとしたのだから。


 日差しが厳しい中、お寺まで行く。駅から歩くと汗だくになった。お寺のお墓のところへ向かうと、綺麗なお花が飾られている。お母さんたちが綺麗にしたのだろう。


「鈴音ちゃん…。私…愛がよく分からない。湊のこと…心配して…行ったんだけど…。逃げてきちゃった」


 小さな声で語りかけたけれど、当たり前だけど返事はない。セミの音がうるさい。そして蚊が足を刺す。パチンと自分の足を叩くと、蚊が潰れたと同時に血が付いた。私は手を洗いに行く。


 お手洗いもついでに済ませた。蚊に刺されるのと暑くてそんなにいれないと私は帰ることにした。


「…来たんだ」と門のところで翠さんに会った。


「あ…。翠さんも…」


「ちょっと早めに来たんだけど。どうかした? 顔、青いけど」


「お参りするのに…何も持ってなくて」


 私は訊かれたことと全く違うことを言ってごまかした。


「あ、お線香あるよ。一緒にあげる?」


「はい」


「お花とかは…片付けがね。お線香と、鈴音が好きだったマドレーヌ買って来たんだ」と言って、翠さんはお墓の方へ歩く。


 私も後をついて行った。


 お墓にマドレーヌを置いて、お線香を立てる。私もその横でお線香を立てた。翠さんは目を閉じて手を合わせた。きっと心の中で会話しているのかもしれない。そう思っ

て、私は少し離れて手を合わせた。


『鈴音ちゃん、恋愛って楽しかった? 翠さん、優しくしてくれた? 幸せだった?』


 私は手を合わせながらそんなことを考えた。



 お参りは五分もかからなかった。お墓に置いていたマドレーヌをまた鞄に直そうとして、私にくれた。


「顔、青いよ。なんか食べたら?」


「…うどん。あのうどんなら食べれる」


「どうかした? 彼氏とけんか?」


 お寺を出るとき、翠さんはくるっと本堂の方に向いて、お辞儀を深くした。まるで鈴音さんをよろしくお願いしますと言うように。


「けんかっていうか…」


「まぁ、なんか食べて帰ろうか。関西風うどんはないだろうけど」と翠さんは言う。


 私は頷いて後をついて行った。




 駅前にあった喫茶店に入る。スパゲッティ、サンドイッチ、カレーとオムライスのある店だった。


「何か、食べれるものある?」


「…バタートースト」と言うと、翠さんは笑った。


「意外なもの、注文するな。俺は…カレーにしよう」


 翠さんは何も聞かずにメニューを畳んだきり、私の言葉を待っている。


「…彼が…女子中学生にストーカーされてて」と言うと、驚いたようにこっちを見た。


 湊のバイト先の塾の生徒が家で誰にも愛されてないから、親切な湊につきまとっていると説明した。


「それで…頻度がすごくなってきて、今日…家に行ったら、その子がいて」


「部屋にあげちゃったんだ」


「多分、強引に入ったんだと思うんです」


「それでも、帰したらいいのに…」


「私が行く予定だったから、留守にもできなかった…のかな」と私は俯いた。


 下着姿だったことまで説明ができなかった。


「それでどうしてお墓参りにきたわけ?」


「…どうしていいか分からなくて。それで…」


 翠さんは柔らかく微笑んだ。


「俺に会いに来たの?」


「はい」と言えずに俯く。


「若い女の子に頼られて、男は嫌な気持ちしないけどね。少なくとも俺はそう。何か力になれることある?」


「…翠さんに…愛が何かを教えて欲しいです」


「え?」


 カレーとバタートーストが目の前に置かれた。


「…飲み物…注文してなかったね」と翠さんが言う。


「…はい。紅茶…アイスで」


 追加注文をしてくれる。そして会話を元に戻していいのか、考えるように、翠さんは前髪に手を差し込んでクシャっとした。大きな筋張った手の甲に柔らかい髪が落ちる。


「翠さんは…家族を捨てて、お金も失くして…それでも鈴音ちゃんと一緒にいることを選んだ人だから…。私、彼のこと好きだけど…彼女が現れて…逃げてばっかりで。それって愛じゃないのかなって」


 そんなことを当の本人にするのは失礼だと分かっている。でも翠さんに聞いてみたかった。すぐにアイスティが運ばれて来た。綺麗な琥珀色が氷で揺れる。


「…馬鹿なことをしたって思ってる。結局、誰一人幸せになんかできなかったから」


 結果はそうだ。


「でも…鈴音ちゃんは…それでも良かったんじゃないですか」


 最後に会った鈴音ちゃんは痩せていたけど、綺麗だった。


「どうかな」と言って横を向く。


「翠さんは幸せじゃなかったですか?」


 横向いたまま、鈴音ちゃんを思い出したのか、柔らかく微笑んで「幸せだった」と言った。まだ愛してるんだなってそれで分かった。その人はもうこの世にいないのに、愛が消えないんだ、と。手で触れることのできない感情なのに、そこに在るのが分かる。


「馬鹿なことしたけど…幸せだった」


 私を見て、そう言ったのは、私にじゃなくて、きっと鈴音ちゃんに言った言葉だった。


「…良かった」


 泣きそうな気持ちでそう言った。鈴音ちゃんは幸せのまま人生を終えられたのだから。あまりにも短い時間の中ででもそれだけは良かった。


「似てる君に言われて、良かった」


「また、似てる人扱い」と私がわざと膨れて言うと、翠さんは笑った。


「ごめん。絹ちゃんだっけ?」


「そうです」


「シルクの絹って言われたから、なんか一度で覚えられた」と柔らかく言う。


 男性嫌いの鈴音ちゃんが好きになる理由が分かった。


「そう…ですか?」


「…うん。でも…まぁ、似てるから、スペシャルサービスで頼っていいよ」


「え? だって…この前は…」


「今、彼氏に頼れないんでしょ?」


 確かに湊を追い詰めることはできない。


「辛くなったら、来ていいから」


 私はそうしていいのか分からないけれど、そう言ってもらえて随分楽になった。


「甘えていいですか?」


「いいよ。それぐらいしないと…。罰が当たる」


 罪の贖罪だろうか、と思いながら翠さんを見たら、とても柔らかく微笑んでくれた。


「じゃ…食べよっか」と翠さんが言って、私は手つかずだったバタートーストをちぎって口に入れた。


 翠さんのおかげで、この後、湊に連絡してみようという気持ちにまでなれた。




 食事が終わって、駅で電車を待つ間に、湊にメッセージを送る。


『今、どこ?』


 すぐに返事が来た。


『家に戻ってる』


 この返事で美奈ちゃんを送り届けたんだなと分かった。それでも私は今日、湊と会って話がしたかった。


『行っていい?』


『来てくれるの? 駅まで行くから』


『ありがとう』とメッセージを送って、翠さんに駅まで一緒に行くことを告げた。


「彼と連絡取れた?」


「はい」


「ゆっくり話合うといいよ」


 そう言って、翠さんは遠くを見た。二人で電車に揺られていると、だんだん日が沈んで行く。




 駅に着くと、翠さんは「じゃあ」とさっと降りていった。


 私はゆっくり降りて改札に向かう。湊が立っていた。


「絹ちゃん、ごめん」と泣きそうな顔で言う。


「いいよ。ちょっと話そう」


 私たちは駅前のドーナツ屋に入った。甘い匂いの漂う明るい店内にちょっと拗れた恋人は似合わない。それでもドーナツ二つとアイスコーヒー二つ頼んで席に着く。


「湊…あのね。本当のこと言って。今から湊の言うこと、全部、全部信じるから。それに…何があったのかも…。あったとしても…私、責めない」


 湊がトレーに乗ったコーヒーを私の前に置くと、俯いて「ごめん」と言った。


「だって、湊…私のこと好きでしょ? 嫌いになったわけじゃないでしょ?」


 顔を上げた湊の目が震えている。


「だから…責めないし。信じるから」


 もう湊はこれ以上、苦しまなくてもいい。



 私を待っていた湊はインターフォンが鳴って、私だと思って、ドアを開けるとそこにいたのは美奈ちゃんだった。美奈ちゃんも私のように出る人が開けたオートロックをすり抜けて上に上がっていたらしい。  


 そして私だと思った湊が開けたドアをすり抜けて部屋に入った。ちゃっかり居座ったので、帰ってもらおうと説得するも言うことを聞かない。


「先生、夏期講習来ないって?」


「実家に戻るから」


「えー? せっかくの夏休みなのに。そうだ、じゃあ、先生の実家に遊びに行っちゃおうかな」と楽しそうに笑う。


 可愛くて、自分でもその容姿に自信のある美奈ちゃんの笑顔が湊は怖かったと言った。


「え? なに? 先生、嫌なの?」


「島田…さん。もう、本当に勘弁してください」と湊は機械的に話した。


「…どうして? 私のこと嫌い?」


「彼女いるのも知ってるよね? それに俺、本当にバイトだけど、塾の先生の仕事、好きだったんだ。島田さんのことだって、真剣に教えたいって思ってた。それに…家のことだって、何とかできないかって、それは今でも考えてて…」


「いいよ。そんな話。どうでも」


「どうでもって」


「私は湊先生がいい。でも、ま…仕方ないかぁ。じゃあさ、もう二度と来ないから、キスして。ファーストキスは一番好きな人がいいもん。付き合えなくても、思い出になるから」


「え? それは…」


「キスしてくれたらもう二度と来ない。してくれなかったら、明日も来るし、実家にも行く」


 そう言われて、湊は冷静な判断もできなくて、キスをした。


 そこに私が来たということだった。湊が私を迎えに出た隙に彼女は服を脱いで、ことが起こるような匂わせをしたらしい。




「これが全部ほんとで。キスをしたのもほんとで。もうどうしていいか分からなくて、絹に会わせる顔もなくて…」と湊は頭を下げた。


「うん。分かった。湊…辛かったね」


「え? 絹ちゃん」と顔を上げて私を見た。


「信じるから。大丈夫」


「…ごめん」と湊はぽろぽろと泣き始めた。


「うち、来る? お母さん来ていいって」


「…ありがとう。でも、明日、母親が迎えに来るって…」


「え? 明日? もう帰っちゃうの?」


「ごめん」


「ううん。じゃあ、良かった。今日、話が出来てよかった」


 私は湊が壊れてしまったんじゃないかと思った。側にいたのに、何もしてあげられなかった。悔しくて、私も涙が出そうになる。


「…湊、あの…私が買った食材はどうなった?」


「あ、冷蔵庫に入れたよ」


「明日帰っちゃうんだったら、今日、食べる? 作るから。冷しゃぶうどんだけど」


 とにかく湊を落ち着かせたかった。事情はつかめたし、キスだって嫌だっけど、仕方ないことだと思ったから、湊が少しでも楽になってもらえることを考える。アイスコーヒーに手を伸ばした時、突然だった。


「絹ちゃん…。別れよう」


「え?」


 私は驚いて湊を見る。


「幸せに…できなくてごめん」


「…あ…う…うん。あの…」


 思ってもいない言葉が出たので、私は上手く喋れなくなる。


「絹ちゃん、優しいから…。辛い…ばかりになる」


「湊…? 嫌いになったの?」


「そうじゃない。好きだから…別れたい」


 胸がひんやりとする。湊から別れを告げられるなんて思ってもみなかった。私は思いあがっていたのかもしれない。


 そしてそんな私が言った言葉は


「冷しゃぶだけ作らせて」だった。

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