第5話

より良い人



 朝、湊が一緒に家に来て、一緒に謝ってくれたから、お母さんもそんなに怒ることはなかった。お父さんはもう会社に行ってて顔を合わすこともなかったけど、朝帰りはやぱっり気恥ずかしい。私が大学へ行く準備とか着替えとかしている間、湊はずっとお母さんと話をして待っていてくれた。何の話をしたのか分からないけれど、最終的には笑顔で送り出してくれたのだから、上手く行ったのだろう。


「…湊。突然のお泊りは本当に良くない」って言うと、湊は優しく笑って「ごめん」と言う。


 うっかり寝てしまった私も問題だけど、と思いながらため息を吐いた。


「絹のお母さん…優しいね」


「…うーん。どうかな。私にはそこそこ怖いところもあるよ」


「絹のことも、俺のことも心配してくれた」


「え?」


「若いから理解できることもあるけどって。でもまだ先のこともあるからって」


「…うん」と俯いたら、湊が手を繋いでくれる。


「絹とずっと一緒にいたいですって言ってしまった」


「え? お母さんに?」


「うん」と言う耳が赤くて、私は心臓が跳ねた。


 なんて言葉を返したらいいのか分からない。でもくすぐったくて、甘くて、そして漠然とした不安も広がる。


「…湊は後悔しない?」


「え?」


「私…だって…まだ湊に全部見せてないとこだってあるし…。ご飯だって、まだちゃんとは作れないし…」


 何だかよく分からない言い訳のようなことを口にしている。


「別にご飯作れる人だからとか…そう言うんじゃないし。もし絹ちゃんが隠してることあったとしても、それってみんなそうじゃない? 俺だってあるし」


「え? あるの? 何?」と顔を覗き込んだら背けられた。


 そんな湊が可愛くて、余計に顔を覗き込もうと回り込んだら、湊におでこを軽くぶつけられた。


「痛い」


「ごめん」


 素直に謝る湊がやっぱり可愛く思えた。


「絹…。好きだよ」


 いつもまっすぐな湊に私はふさわしいのかな、と一瞬考える。


「私も」と恥ずかしくなって俯いて言った。




 恋愛の上級者でも上手く行かないことがあるらしい。ランチの時間で.私は校舎の下で、港と待ち合わせしていたのだけれど、そこに桃ちゃんも奈々ちゃんもいて、話をし始めた。桃ちゃんは相変わらず、連絡のない土日を過ごしたようだった。


「もう、これ…無理だよね」とため息を吐く。


 奈々ちゃんが「合コンいく?」と訊く。


「奈々ちゃん…先輩と付き合ってるのに?」と私が言うと「付き合いで行くだけ」としれっと言う。


「付き合い?」


「まぁ、今回は桃の付き合い。で、もしかしたら素敵な人いるかもしれないでしょ?」と言うから驚いた。


「…先輩は?」


「比較して良かったら、仕方ないでしょ?」と私の額を指で押す。


「比較…」


「だって一人としか結婚できないじゃん? じゃあ、より良い人がいい」と奈々ちゃんは言ってのけた。


「私も新しい人を探そうかな」と桃ちゃんが言う。


「じゃあ、合コン行こう。絹は来る?」


「私は行かない」


「まぁ、湊君いい人だもんね」と奈々ちゃんはさっさと誰かにメッセージを送っていた。


 より良い人…、と言う奈々ちゃんの言葉が繰り返される。


 湊も私よりいい人に出会えたら、気持ちを変更するんだろうか。そして私も?


「絹は浮気とかできなさそう。したとしてもすぐバレる」と奈々ちゃんが言う。


「絹は浮気なんかする必要がないよ」と桃ちゃんが指を差す。


 その方向に湊がいて手を振っていた。




 湊と私は外で食べることにした。二人で通学途中で買ったサンドイッチを取り出す。


「絹、半分交換するんだっけ?」


「うん。私のデザート系選んだから。湊は海老カツ?」


「そうだよ。なんかタルタルソースが美味しそうで買った」


 不意にさっきの会話が思い出されて、不安になる。


「…金曜の夜って塾だったよね?」


「うん。しかもテスト前だから…生徒残るだろうなぁ…」


 湊は自習室で頑張っている生徒の質問にも答えている。


「そっか…。大変だね」


「どうした?」と湊が顔を覗き込む。


「ううん。金曜だから…行こうかなって」と言うと、湊が嬉しそうに声を上げた。


「マジか!」


「あ、でも…いいの。テスト前だから、生徒さん見てあげて」


「なんか、最近、絹が積極的になって…嬉しい」


「違うよ! あ…違うよじゃなくて…」と私は恥ずかしくなった。


「嬉しいなぁ。ありがと」と言って海老カツサンドを渡してくれる。


 港が選んだ海老カツサンドはタルタルソースが美味しくて、二人ともペロリと平らげる。


「次はフルーツサンドね」と私が開けようとすると、湊が「コーヒー買ってくる。絹もいるでしょ?」と言う。


 頷くとすぐに立ち上がって、自販機まで走ってくれる。湊は本当に優しい。


 湊よりいい人なんていない。でも私よりいい人なんて山ほどいる。


「なんか…焦っちゃったな」と私は呟いた。




 金曜日、私もバイトで遅くなったし、ケーキをもらえた。時間を見ると湊の塾も終わる頃だった。今から行ったら、きっとちょうどいいかもしれない。会えるかもと思って、電車に乗った。事前にお母さんに電話している。ちゃんと帰ってくるから、と。ケーキだけ渡して帰るつもりだ。


 サプライズするなんて.私も本当に焦ってる。桃ちゃんたちは今日、合コンだって言ってた。いい人に会えたんだろうか。そんなことを考えながら電車に揺られる。



 湊のマンションのある駅に着いた。偶然にも下車する人の波に湊を見つける。今、声をかけたらきっとびっくりするだろうと私は少し楽しくなって近づく。声をかけようかなと思った時、横からセーラー服を着た女の子が飛び出した。


「先生!」


「お、島田?」


「先生の家、ここ?」


「そうだけど? 何してんの?」


「ついてきちゃった」


「いやいや。何してんの?」


 島田と言われた女の子は湊の腕をさっと取った。私はどうしていいか分からずに人並みに紛れて改札に向かう。どうにか話をつけて、きっと戻ってくるだろうと思っていたが、次の電車の人波が来ても、湊は降りてこなかった。


 それから三回、人波を待ったが、出てこなかった。私は湊のマンションに向かうことにした。ケーキをどこかに置いて…と思った。


 ぽつぽつ歩く。


 湊がいないとマンションに入れないことに気がついたのに、足が止まらなかった。


 ただあの小道にさしかかると足が止まった。私を見ていたあの人は二階の二番目の扉にいる。小道に吸い込まれるように歩いて行った。


 ケーキを持って帰るのも嫌になった。あの人のドアノブにかけたら驚くだろうかとふと考える。そんなことされたら…とリアルに頭の中で想像する。


「気持ち悪い…」と言われる気がした。


 私は踵を返して、また改札にむかった。ホームに上がると、向こう側のホームに湊も女の子もいない。


「どこ…行ったんだろう?」


 より良い人…と私は呟いた。夜遅い電車は空席もあるのに座れなかった。

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