第70話
永遠
年が明けて、嬉しいニュースが届いた。則子さんがラジオフランス交響楽団に入団できたのだった。地道にいろんなオケに入ったり、有名オケのエキストラに入ったりして努力で勝ち取った。
今日はそのお祝いで、則子さんのパートナーが経営しているカフェでお祝いだった。莉里は白とオレンジのラナンキュラスの花束を用意していた。地下鉄の出口を出て、二人でカフェに向かう。寒くて、息が白く凍る。
「則子さん、すごいねぇ」と感心している。
「…うん。本当に」
俺は偶然、則子さんのいろんなことを知ってしまった立場だから、感慨深い気持ちになってしまう。でも彼女は道を開いた。何度でも折れる瞬間はあったはずなのに。
俺もそうだ。いつでも折れる瞬間はあって。でも今ここにいるのは莉里がいてくれたおかげだ。
「なに?」と莉里が俺を見る。
「ありがとう」
「え?」
「莉里に会えて、今は本当によかったと思う」
「今は?」
「辛いときもあったから」
素直にそう言うと、莉里が手を繋いでくれる。
「私もりっちゃんに救われたから」
時々、昔の呼び方になる。それは昔の俺のことを思い出している時だった。
始めて会った時の印象は綺麗で優しい女性だと思った。女性に対して、そんなことを思ったのは初めてで、初恋だった。
「莉里が初恋だったって言ったら、おかしい?」
「え? ほんとに?」
「うん。ませたガキだったんだよ」
「あ…。だから…中学生の頃には口聞いてくれなくなったの?」
今、気づいたのか、と肩を落とす。鈍感なのは知ってるけど、と俺はため息を吐いたら、莉里は顔を真っ赤にして笑い出した。
「何?」
「知らかったとは言え…ごめんなさい」
「何が?」
莉里は可愛かったから俺を気軽に抱きしめたりしていたことを思い出したようだった。
「年齢が上がるにつれ…辛かった」
「ごめんなさい。だって、すごくかわいくて」
「知ってた。それ以上も以下もないことも知ってた。だから…だからフランスに来たのに」
不貞腐れると、つないだ手をぎゅっと掴んでくれる。
「そんなことないよ。私…。自覚してないけど、りっちゃんのこと…好きだった」
自覚してない好きってどういうことだ、と俺は莉里を見ると、顔が真っ赤になっている。
「っていうか…自覚しないようにしてた。だって…姉弟だから。でも…バレンタインの日だって、たくさんもらってくるから、私も頑張って作ったし…それに…」
俺と映画を見に行った時は飛び切りのおしゃれをしていた、と言う。
「…知ってた。おしゃれしてくれてるの」
「…だから…私も初恋が律だから」
そんな言い合いをしていると、お店が見えてきた。賑やかな声が漏れている。
その日、俺は則子さんとジャズ演奏をしたり、莉里は則子さんのパートナーと言っても女性だけど、二人でダンスしたりしていた。集まった人たちの明るい笑顔を見ていると、俺も自然と笑顔になれた。良い事ばっかりじゃない。でも辛い事ばかりじゃない。ピアノできらきらした音を出していた則子さんは今は楽しそうにコンバスを弾いている。俺は相変わらずピアノを弾いているけど…。お互いいろんなことがあった。そう思って則子さんを見ると、ウィンクしてくれた。莉里は相変わらずくるくる踊ってい
る。他の人たちもくるくる回転していて影絵のようだ。ちょっと音楽を早くしてみようといたずら心が起きる。ウィンクしてくれた則子さんに目配せすると、分かったと言うように頷いた。笑い声、どよめき、いろんなものが回転する。スピードについて行けずに落第する人もいた。でもみんな笑顔だった。
ちっぽけな人間たちの幸せな時間だった。
桃花さんから荷物が届いた。
実は俺は桃花さんに絵を描いてもらうように依頼した。あれ以来、一度も連絡を取っていなかったけれど、俺はふと、桃花さんに絵を描いてもらおうと思った。手紙が入っていた。
『律君
すごくお久しぶり。時々、律君の活躍ぶりをチェックしたよ。だから元気なの、知ってた。
私事ではおかげで無事に五年過ぎました。生きてる。だから別に検査しなくても大丈夫だったんだって。
後、元夫と暮らしてます。籍は入れてません。彼は五年経過した時にまたプロポーズしてくれました。でも私は今のままでいいって言いました。それは彼に好きな人が出来て、その人と新しい人生を送ってもらいたいから。私は絶対に子どもが作れないし。でもお互いが好きな間は一緒にいましょうって言ってます。彼、泣いちゃった。ねぇ、うれし泣きだと思う? それともどうかな?
今ね、私、学校の先生してる。中学校の。実は保健体育の先生なの。びっくりした?
跳び箱も結構、飛べるんだよ。病気になったから一旦辞めたけど、戻ってきて、非常勤からスタートしたの。考えたら、先生は走らなくてもいいんだもんね。
それと絵を描いて欲しいって…。あれからたまには描いてるけど、そんなに上手くないよ?
でも一応描いて送るね。律君のコンセプトにちょっと病みを感じたえけど、大丈夫? 先払いで振り込んでくれたけど…返金しないよ?
後、綺麗な人の写真、ありがとう。好きな人だよね? まとまったのかな? よかったね」
手紙を読むと、相変わらずの桃花さんだったから、思わず笑ってしまった。
「どうしたの?」
キッチンで何か作っていた莉里が言う。
「ん…。絵を頼んでて」
「絵? 律が?」と莉里が走って寄ってくる。
包まれている新聞紙を破ると絵が出てきた。
二人で顔を突き合わせて絵を覗く。
期待通り、落書きのような、でも光をぎゅっと集めたような黄色い絵具で塗られていて、真ん中に黒い塊はきっとピアノで、その横に肌色の女の人のような…(多分人間)がブドウを食べている。俺のイメージは一粒つまんでいるのに、絵の中の肌色は一房を片手で上げて、顔を上に向けてそのまま口を開けて食べようとしている。
「…? なに、これ?」
莉里は絵を縦にしたり、横にしたり不思議そうに見ている。
俺だって、自分で注文しなければ、何が描かれているのか、天地すら分からないだろう。
「すごく…現代的な絵画なのね」と莉里は真剣に言うから、噴き出してしまった。
噴き出されて、莉里は俺に「何が描いてるか知ってるの?」と真面目な顔で聞くから、たまらず笑い転げてしまった。
「ずるい。律知ってるなら、教えてよ」と絵をまた逆さまにして言う。
「莉里…、それ…逆」と笑いを堪えながら言う。
「逆?」
「違う、もう一回…回して」ともう息も絶え絶えで言う。
俺が笑いすぎてるから、莉里も笑い出した。
「えー? こっちでいいの?」
「そうそう。その向き、ほら、黒いのピアノで…。その肌色…はだ…色が…り…り」
途端に、莉里も笑い出した。
「分かった。楽園でしょ?」
――楽園。
「正解」と言ったけれど、俺はもう息をするのも辛かった。
でも俺が想像してたのと全然違うから。莉里、誤解しないで。そういうのじゃないから。
「お水持ってくる」と親切な莉里は立ち上がった。
桃花さんの絵は進化してる…というべきか、相変わらずと言うべきか、と俺はまた絵を眺めた。
キッチンで水を入れた莉里が言う。
「とってもいい絵だと思う。太陽の光がいっぱいで」
「ブドウ畑をお願いしたんだけど」
「…光なの。きっと葉っぱにいっぱい光が落ちて照らされてるの」
水を持って、莉里が来てくれる。
「そうかなぁ…」
水を渡してくれて、俺の目をしっかりと見る。
「律…。この絵描きさんと知り合い?」
「え?」
莉里に内緒にしていたことを話さなければいけなくなった。
優しい莉里は怒らなかったけれど、少し複雑そうな顔をしていた。でもすぐに微笑んで絵をリビングに飾っていた。
ピアノと莉里と楽園がある。世界中を移動しても、しなくても、莉里がいる場所が楽園だから。
「ねぇ、莉里、ブドウ食べて」と言うと、あれから莉里はわざとブドウを片手で上げて、口を開ける真似をしてから、笑う。
「もう、ごめんって」
それを聞くと、にっこり笑って、一粒つまんで口に入れる。
その口にキスをすると、甘い果汁の味がする。朝市で莉里が買ってきたものだった。
初恋が叶った。
『莉里
本当にありがとう
生きることの辛さも楽しさも喜びも…哀しみも
人一倍感じることができた
辛いことも悔しいことも、乗り越えられた
これからもきっと、挑戦し続けられるのは
莉里が側にいてくれるから
ねぇ、もし君が先に天国に行ったら、慌てて追いかけるけど、逆だったら
ゆっくり来て欲しい
他の人と恋してもいい
でも本当はちょっといやだけど
その話を楽しみに待ってる
それって辛いかな? そう思うと元気でいなきゃねって最近思う
前は生きている意味が分からなかったけど、
今は君のために
そして君が必要としてくれる自分のためにって
そう思わせてくれたのは莉里だから
それで何が言いたいかって言うと、やっぱりこんな言葉しか思い浮かばないけど
莉里
ありがとう
愛してる』
この手紙をピアノの下に隠した。莉里はきっと一生見つけることはできないだろうな、と俺は笑う。それでもいつか見つけた時はきっと辛いときかもしれないから…。見つからなければいいな、と思った。
「律。晩御飯はねぇ…」
そう言って微笑んでくれる莉里がいる。
「今日は外に行こうか」
俺のこんな一言で、飛び切りの笑顔を見せてくれる。
「帰りにアラブ屋に寄ってアイス買おう」
コンビニはないけど、夜遅くまで開いている何でも置いてる商店に莉里は行くのが好きだった。日本でもコンビニでお菓子大量に買ったりしたことあったっけ。
「アイス? いいけど」
「律は何でもいいって言ってくれる」
「それくらい…いいよ。莉里も何でもいいって言ってくれたら嬉しいのに」と言うとすぐに「嫌」と言われてしまった。
「どうせ楽園ごっこしたいって言うんでしょ?」
「そう。あたり…。莉里はそれだけは嫌なんだね」
「だって…おかしいもん。律、裸でピアノ弾ける?」
「弾けるよ」と言ってシャツを脱ごうとすると、莉里が慌てて、止めにくるから、抱きしめた。
腕の中に閉じ込めて「弾けるよ」ともう一度繰り返す。
「いいから。もう」と莉里が頭を擦りつけてくる。
甘い匂いと柔らかい声。顔を上げて欲しくて、名前を呼ぶ。顔を上げた額に唇を押し当てる。
「ごめん。でも…大切な莉里が風邪ひいちゃうね」
「じゃあ、大好きな律だって…風邪ひいちゃうからやめよ?」
莉里の笑顔が腕の中にあることが嬉しくてたまらない。
莉里のために悲愴の二楽章を弾く。服を着たままだけど、かわいい莉里が側で聴いていてくれる。穏やかな時間を二人で重ねていく。これからも。何度でも。繰り返しずっと。
莉里を見たら、幸せそうに微笑んでくれるから。
その笑顔を永遠に記憶に残るように刻み込んで思う。
初恋が叶った。
そんな幸せな一人のピアニストの話。
「律…。ありがとう」
柔らかい彼女の声が耳に残る。まだ寒いけど、柔らかい春の空色が窓から見えた。
~終わり~
初恋 かにりよ @caniliyo
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