第67話

失格…



 コンクールの発表も何もかも終わって、外に出ると、則子さんに首元を掴まれた。


「律君!」


 かなりお怒りの様子で、俺は掴まれたまま、力なく笑った。そこに莉里はいなかったから。そして則子さんに怒られるのももっともだと思った。


「ごめん」


「ごめんじゃないわよー。私、本当に…本当に…あのベートーベンで感動したんだからね。あそこまで良く…出来たって…」と言って、力なく手を離された。


「…まぁ、あれは…もともとコンクールって言う気持ちじゃないから、できたことかもしれないけど」


「もー、あんたは本当にばかなんだからぁ。失格なんて…。ほんと…ばか」と則子さんが大声で言って、そして涙を零した。


「ちょっと…」


 則子さんがピアノからコントラバスに転科したとは言え、ずっとピアノをやっていて、彼女なりに愛していて、だから勝手な事をして、コンクールを冒涜した俺のことを怒るのは当然だった。アンコールは観客には好評だったけれど、それはコンクールでやることではなかった。分かってて、あえてしてしたことだった。


「莉里さんだって…帰っちゃったわよ。…緑ちゃんが来てて、彼女、莉里さんに全部、全部ばらしたからね。記憶喪失のフリしてるってことも」


「え?」


「それで、莉里さん、あなたがそうしたいなら、それを受け入れるって。あれ、別れの曲になっちゃったじゃない…。あんたのしたかったことって、コンクール、棒に振って、別れを決定させることだったの?」


 俺は緑ちゃんが来ていることも知らなかったし、それに莉里に全部話すなんて思いもしなかった。


「いや…そんなつもりじゃなくて…。そうじゃなくて…」と口を動かすけど、何も言えない。


 なんて滑稽なんだ。


 本当にばかだ。


 則子さんが言う通り、コンクールを無駄にして、莉里を傷つけた。


「それで…莉里は?」


「パリに二三日滞在するって」


「…。あのさ」


「最後のチャンスよ」と則子さんはため息を吐いた。




 コンクールで勝手にアンコールをやらかしたということはある意味、話題になった。ルールを破ってしたことを好意的に取ってくれる人ばかりではない。


『まるで優勝者気分? 独りよがりなアンコールで失格に』と見出しがついた記事もあった。


 フランスの先生、エレーヌに怒られると思っていたけど、ため息一つだった。


「すごいショーを見せてもらったけど、コンクールでは許されない。そういうところから教えなきゃいけなかったわね。向こう三年は出られないと思いなさい」と言って、新聞を手渡された。


 自分の愚かな行動が丁寧に書かれている。


「なまじいい演奏だっただけに…。あのね、あなたは実力があるから、あんなことしたら駄目なの。色物で名前を売ることは自分の実力を裏切る行為なの。分かった?」と助手のコレット先生にまで怒られた。


「誰のために弾いたの?」とエレーヌ先生が扉を閉めようとした時、訊く。


 俺は聞こえなかったふりをして、そのまま扉を閉めた。



 分かってる、分かってる、分かってる。



 そして嫌味たらしい指揮者も電話で「結果の出し方が違うけど、ほんと、リツは露出狂なんだということが痛いほどわかった。当分、共演なし。その間、頭を冷やしなさい」と言われた。


「すみません。あの…時間が押してるので切っていいですか?」と言ってさらに怒らせた。


 どんなに謝ったって、もうやってしまったことは取り消せない。


 そしてメアリーの電話の表示が出た時、俺はスマホの電源を落とした。



 則子さんが教えてくれた。莉里が中華街に向かって、一人でフォーランチをするということを。だから電話に対応している暇はない。事務所からも契約解除とか留守番電話に入っていたけど、それどころじゃなかった。




 急いで地下鉄に乗ってプラスドイタリー駅まで向かう。駅からしばらく歩くと中華街になるのだが、その途中で綺麗な花を咲かせている木が道を飾っている。桜にそっくりな木だ。その木と空を眺めている莉里がそこにいた。長い間、じっと見ている。そしてスマホを空に向けた。


 言葉が出ない。


 何カ月ぶりだろう。


 あぁ、そっかちょっと前にイタリアのカフェで痩せた背中と横顔を見たか、と思った。 


 必死に何かを掴もうとしているような横顔に泣きたくなる。声をかけれなくて、スマホの電源を入れて、写真を撮った。シャッター音が鳴る。その音に莉里が振り返った。


 俺を見て、目を大きく開く。


「莉里…」


 名前で呼ぶのは本当に久しぶりだな、と少し照れ笑いしてしまった。


「律…」


(あぁ…。その声で名前を呼ばれるのも久しぶりだ)とまた恥ずかしさを隠すように笑う。


 こういう時って、泣きたい気分なのに笑ってしまう。

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