第66話

分かったこと


 ファイナルの最後の演奏が俺だった。ショパンを弾いた人もラフマニノフを弾いた人も上手くて、さすが残っただけある、と思った。でも俺はとても気が楽な気持ちだった。どうしたって勝てない勝負だと分かっていた。則子さんから莉里が会場に来ていると連絡が入っている。


 それが嬉しくて仕方がない。呼び出されて、舞台に上がる足も軽やかになる。舞台が眩しくて、客席は見えないけれど、俺はお辞儀をした。



 アレグロので出しはオーケストラの爆発的な音から始まる。そこを軽やかにピアノが走せる。莉里は知らない曲だと思うけれど、きっと寝ないはずだ。冒頭が終わるとオケがテーマを演奏する。その間休憩だ。この曲を選んだ時点で勝負にはならない。それでも莉里が来てくれるのだから、精神誠意で演奏する俺の音を聴いてもらう。オケと合わせるのは本当に楽しい。ファゴットとピアノの粒が揃って音楽を奏でる。コンクール優勝がもう頭にないから、俺は気軽に演奏に徹することができた。


 この曲は初演が不人気だったせいか、ベートーベンが存命中には二度と演奏されることはなかったらしい。それが後世、名曲として知られている。そしてベートーベンのピアノ協奏曲として最後の作品だった。もし彼が存命中に人気が出ていたら、もっと作品が産まれていたかもしれない。


 莉里はどんな思いでここまで来てくれたんだろう。


 記憶を失くした弟のために来てくれた?


 まだ俺のこと…愛してくれてる?


 余計なことを考えそうになるけど、この音楽を莉里にも楽しんで欲しい。


 ベートーベンがフランス軍に占領されたウィーンの地下室で作曲されたこの曲を。そんな状況でも音楽を作っていたベートーベン。かなり変わった人物らしいけれど、莉里が好きなあの曲も作っていて、作品と本人の剥離がすごいように思えるけど、そうじゃなくて、きっと優しい人柄もあったのだろう。残念ながら、後世に残っているエピソードは奇行が多い。他人は所詮そんなもんだ。目立つところしか見ていないのだから。無責任な噂話が広まるのは今も昔も変わらない。



 二楽章は穏やかで優しい時間が流れる。



(ねぇ、莉里。莉里がいなくなってから、いろんな国で演奏してきた。どこに行っても、莉里に会えなかったけど、分かったことがある。それぞれ気候も違えば、楽器の質も違う。観客の反応も違う。それなのに俺は真摯に作曲家が作った音楽を奏でる。


 ずっとどうしてピアノを弾いてるか自分でも分からなかった。そうするしかなかったから…と思ってた。でも、本当にいろんな場所で演奏する度に、ありがたいことに称賛されて、これが俺の役目なんだなって、受け入れることができて、それで、そんな自分もピアノも愛せることができたんだ。


 でもそれはずっと莉里が応援してくれてたから。だから辛くてもやめられなかった。


 今はやめなくてよかったと思ってる。


 莉里にありがとうを伝えたい。


 コンクールには不向きかもしれない演奏をするけど、ここの人たちは食事が無駄に長くて辟易するけど、でもそういうことが生きるってことじゃないかなって、最近思ってる。


 愛したり、傷ついたり、嘘ついたり、泣いたり、そういうことが生きてることなんだって、ようやく分かった。それを教えてくれたのが莉里だから)



 そして無事に演奏を終えた。終えた時はコンクールということを忘れていた。自分の公演をしたような気がした。割れんばかりの拍手にお辞儀をする。三回も協奏曲を指揮した指揮者と握手する。さすがに疲れが見える。もう一度、深くお辞儀をする。


(今から、少し勝手なことをしますが、ご了承ください)と心の中で言うと、またピアノの椅子に座った。


 指揮者がぎょっとした顔で俺を見るから、優しく微笑み返した。


(五分だけ、そこで待ってて)


 会場がざわめくので、両手を上げてピアノを弾きますというアピールをした。まるでアンコールを受けたように俺は悲愴の第二楽章を弾き出した。


 水を打ったように会場が静かになり、優しい時間を作っていく。



 莉里…。ずっと変わらず愛してる。

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