第65話

遠くなっても



 セミファイナルに残っていて、当然のようにしれっと演奏して。いや、そういう顔をしつつ、内心では相当、根性だしてファイナルに残るように、欲深く演奏した。イタリアのコンクールだから、感情込めて熱く弾く。メアリーといろんな国を回ったのが役に立つ。ファイナルに残る。ただそれだけだった。



 則子さんは何もかも分かっているように、セミファイナル演奏前に俺に報告をしてくれた。


「莉里さんは教会に行って、律君の祈願をしてるみたい。今日は…多分、来なさそう。すっかり痩せてしまってかわいそうだね」とメッセージをくれた。


「ファイナルは?」


「そりゃ、通ったら来るでしょ? そのためにイタリアに来たんだから。ってか、通る自信あるの?」


「まぁ…。通らないと話にならないから頑張る」と楽屋でメッセージを送った。


「自信家。私にきらきらした音を教えて下さいって言ってた律君が懐かしい」


 そのメッセージを読んで、苦笑いする。そんなこともあったな…。そんな懐かしい自分から考えると少しは成長したのだろうか、と思う。


 莉里のために勝つ。本当は演奏なんて勝ち負けじゃないんだけど、今回だけは…どうしても負けられない。俺の持てるもの全て差し出していい。



 ファイナルに選ばれた時は初めて嬉しく感じた。莉里のために用意した曲はベートーベンの協奏曲第五番「皇帝」。選んだものの、莉里は絶対知らない。ただのベートーベン繋がりなだけだ。寝てしまうかもしれないな、と思って。でもそれもいいか。すやすやと心地よく寝てもらえたら本望だ。まぁ、寝ないとは思うけれど。



 この選曲では勝負にならないのは知っていた。でもそれで良かった。勝負はセミファイナルで終わりだ。後は楽しい演奏会。想像するだけで笑みがこぼれてしまう。


「あー、あー。指揮者には怒られるなぁ」と呟きながら、突き上げて来る笑いをかみ殺した。


「律君、晩御飯はどうするの?」と則子さんから聞かれた。


 莉里と俺のことを心配してくれているのか、一々報告してくれる。


「今日は先生と食べるから。お姉さんと一緒に外食してあげて。たくさん食べさせてあげて。俺がいない方がきっとたくさん、美味しく食べられるはずだから」


「律君…。分かった。たっぷり美味しいもの食べさせる。イタリアは美味しいもんね」


「ありがとう。ファイナル、楽しみにしてて」


「うん。でもどうしてあの選曲なの?」


「弾きたいから」


「え?」


「聴いたら分かるよ」


「…分からなかったら、教えてよ?」


「いいよ。分からなかったら…失敗したってことだから」


「何が?」


「まぁ、お楽しみってことで」と言ってもう一度、お礼と莉里のことをお願いして電話を切った。


 莉里が教会でお祈りしてくれてるということが嬉しくてくすぐったい。


「ちゃんとファイナルは頑張らなきゃなぁ…。怒られるかもしれないけど」と言って一人で笑った。



 晩御飯だと呼ばれると、わざわざフランスから先生も聴きに来てくれていた。


「お久しぶりです」


「リツ」とフランス式挨拶ビズを交わす。


 先生が少し小さくなった気がする。初めて会った時はしゃっきりして、少し怖かったけど、今はほんの少し老いが見えた。


「セミファイナル良かったわ。あなたがあんな演奏をするようになるなんてね。技術テクニック力技パワーで演奏するから困ってたのよ。それなのに今日の演奏は…心が揺さぶられたわ。成長を感じた」


「先生のおかげです」


「…そう? そう言う事にしておきましょう」


 フランスとイタリアの長い食事が始まった。本当に良く喋るし、飲む。フランスもイタリアも前菜やら、第一の皿プリモピアットやらと、順を追って出てくるから、とにかく時間がかかる。明日、ファイナルじゃないとは言え、そういうところは日本人的には何だか違う気がしたけれど、音楽はこういう土壌で生まれたのだから、と思わさせられる。


 無駄があってもいいのだろう、ともう正直、諦めている。


 そんな音楽をファイナルで演奏する。俺も長い間住んでいて、毒されている気がした。まぁ、でも食事はさっさと済ませたいけれど。まだ始まったばかりの食事を見てため息をついた。今日のセミファイナルの感想から、気が付けば政治の話、最近の気候の話まで様々な話題だった。


「リツ…。ちょっとあなた…大人になったわね」


「え? ちょっとですか?」


「随分よ。何だか…本当に小さい男の子を預かってたから…。あのお姉さんはどうしたの?」


「…ファイナルを聴きにきてくれるそうです」


「そう。良かったわね」


 先生は知っていた。姉である莉里を好きでいたことを。


「人間って気持ちはいつか変わるって言うでしょ? 失恋してもまた新しい恋が始まるって」と言って、ワイングラスを傾けた。


「でもね…。大好きだった人は一緒になれなくても人生、ずっと、生涯ずっと忘れられないものなの。そしてその時の気持ちは消えたりはしないのよ。例え、違う人を愛することがあっても、それはまた別なの。…だからね。私もずっと心に愛してる人がいるわ」


 先生の好きだった人。チェリストの恋人。元彼女が声楽家で三角関係の末、彼女の声を駄目にしてしまった。そのことが原因で別れることになったという。


「彼女は音楽を諦めることになったけど、彼を得た。私も時折、ピアノより彼が欲しかったって思うけど、ピアノのおかげで楽しいこともたくさんあったから…。ファイナルは頑張りなさい。きっとリツにとって力になる日が来るから」


「はい」


 その話を聞いて、一番好きな人と一緒に最後までいられら人なんてほとんどいないんだろうな…と思った。

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