第68話

未来へ



 莉里は名前を呼んでくれたものの、突然現れた俺に驚いている。完全にストーカーだ。だから則子さんに莉里の居場所を教えてもらったと説明するけれど、考えてみると、それもストーカーっぽい。何を言っても、してもストーカーにしかならなくて、焦ってしまう。


 本当は嘘をついていたことを謝らなければいけないのに、口から出たのは「一緒にフォーを食べたかったのに」と子供じみた言葉だった。


 そしたら莉里は優しく微笑んで


「演奏、とっても良かった」と褒めてくれた。


「うん、頑張った」


 さっきまでずっといろんな人に責められていたから、莉里にそう言ってもらえて本当に嬉しくなる。何より、莉里に聴いて欲しかったから、素直に幸せな気持ちになった。あのアンコールは莉里のために弾いたのだから。それだけでもういい。今後ピアニストとして険しい道になるかもしれないけど、後悔はない。


 莉里の目から小さな輝きが零れ落ちた。 


「私も…大学院…受かったの。日本で勉強して…」


 そんなことを言う莉里がいじらしくて、つい俺も「次は一位を取る」なんてコンクール出禁になったのにうっかり言ってしまう。                                                                       


「じゃあ…フォーの約束はお互いの目標が叶ってからにしない?」


(向こう三年出禁で…一体、何年かかる?)とぞっとする。


「そう? 俺はお腹空いてるけど」と莉里が一緒に食べてくれるのを期待して言う。


 そんな俺の気も知らないのか莉里はおすすめのお店を紹介しようと道の向こう側を指さす。


「…美味しいお店はねぇ…数字の」と相変わらず鈍感で素直な莉里に近づいて抱きしめた。


 ものすごく細くなってる。莉里の生活を想像すると、胸が潰れそうになる。俺が謝ると、腕の中で首を横に振る。莉里の甘い柔らかい匂いが立った。くらくらしそうだ。


「愛してる」


 言ってしまった。莉里を傷つけたのに、言ってしまった。胸にある温かさを感じてしまったら、止められなかった。何か莉里が呟くように息を吐くから、余計胸が熱く湿る。


 俺がいなかったら莉里はごく普通に結婚相手を見つけて、幸せになっているなんて考えた結果がこの細い体だった。


「莉里…。ごめん。好きになって…」


 会わなきゃよかった。


 人生で一番、好きで、苦しくて、だから…会わなきゃよかった。最初っから。


「そんなこと…」と莉里が顔を上げる。


「苦しかった?」


 痩せてしまったのは俺のせい?


 莉里はするすると手を上にあげて、両手を俺の頬に当てる。


「素敵だった。何もかも…幸せで」


 莉里から唇を寄せてくれた。柔らかくて甘い匂い。抗えずに深く莉里の舌を求めてしまう。でも莉里から離れた。


「ありがとう」


 あぁ、もう過去なんだな、と思った。


「あの…第二楽章も…ありがとう」


 そう。いつも莉里のために弾いていたよ。そう言うと、莉里は少し辛そうに目を閉じて息を吐く。閉じられた目が濡れ始める。


 もしまだ気持ちがあるなら?


 その目は開くことなく、でも溢れる涙を俺は見ていた。


「…莉里。…待ってて欲しい」


「え?」と大きく開かれた目から大粒の涙が零れた。


「迎えに行くから。すぐに迎えに行くから」


 そんなことを言い出す俺に莉里は「お別れするつもりだったんでしょ?」と聞き返す。


 そうだ。俺はそんなことを言える資格のない男だ。


 それなのに、往生際が悪くて、悪くて、悲しいくらいに期待してしまう。


「そのつもりだった」


 そもそも莉里への気持ちはフランス留学するという選択をした時点で終わらせようと思っていた。それなのに結局それもできなくて、莉里を傷つけてしまうことになった。


「離れた方が幸せに…なるんじゃないかって」


 そう思って、手放したのに。痩せてしまった体を見たら、不幸だったんだと教えられた。俺と一緒にいると、きっと大変なことばかりだと思うけれど、それでも…こんなに痩せさせることはないと強く思った。


 ――神様。罰は受けるから…。


「…私は」と莉里が言って、俯く。


 ――俺の寿命を削ってもいい。 


(莉里を俺が幸せにしたい)


 俺は勝手なことを口に出そうとした時、莉里のお腹が可愛く鳴った。


(神様…)


 耳まで真っ赤にしている莉里を見て、あの時程、神様に感謝したことはなかった。


「やっぱりお腹空いたから、折角だし、一緒に食べようよ」と俺が言うと、黙って頷いてくれる。




 二人で一緒に食べたフォーは幸せの味がした。いろんな野菜みたいなのをたっぷり入れるらしい。入りきらないのはどうなるんだろうかと思いながら、野菜を放り込んだ。


「実は…初めてなんだよね」と俺が言うと、莉里は驚いた顔をする。


「そうだったの?」


「うん。だからずっと一緒に行きたかった」


「ごめん。…律、ありがとう。すごくおいしい」


「え? 俺が作ったわけじゃないのに?」


「律と一緒だと食べ物の味がする」


 幸せになって欲しくて別れたのに、食事もろくに取っていなさそうだった。


「…莉里」


 俺はもう一度コンクールを目指してみることを決意した。向こう三年出禁になるけど、莉里も大学院を卒業するだろうし…と思って口を開いた。


「お願いがある。一位が獲れたら…来て欲しい。そしてずっと側にいて欲しい」


 断られるかもしれない。先のことだから変わるかもしれない。でも今、俺は伝えたかった。


「…律。いいの?」


「すぐには…獲れないけど。いろいろ…各方面に謝罪しなきゃ…で」と言うと、莉里は心配そうな顔で俺を見る。


「でも…莉里のためなら、頑張れるから。今までもそうだったし、これからも」


「律は…私がいなきゃだめなの?」


 なんて可愛いことを聞いてくるんだろう、と思ったけど、頷いた。


「そうだよ。ずっと、そうだった。知らなかった?」


「初めて…知った」


 あぁ、やっぱり鈍感で素直な姉は耳の赤さが隠せてない。


「莉里だって…同じじゃないの?」と俺は聞いた。


「私も…律じゃないと…駄目だから」


 すっかり赤くなって、俯いている莉里を見て、俺は非常に満足な気持ちになった。そして調子に乗って、残り二日の間、俺の部屋に戻って、いっしょに過ごそう、と莉里に提案する。小さく頷くのも、何もかも愛おしい。今すぐ連れて帰りたくなってしまった。




 莉里が帰国するまでの二日間、ずっと二人でいた。



 エレーヌ先生と事務所には謝罪を入れておいた。メアリーは心配するメッセージをくれたから返信しておいた。後は莉里が帰国してからだ、と携帯の電源を落とす。


「律…大丈夫?」


「まぁ、多分。…いや、何とかするから」と言うと、後ろから莉里が抱き着いてきた。


 珍しいことだったから、固まってしまう。いつもは俺から莉里に触れたりしてたのに、今は違っていた。


「莉里?」


「…律のばか」


「え?」


 初めてそんなことを言われて驚いた。


「折角のコンクールなのに、私のために台無しにして。コンクールだけじゃなくて…きっとこれから大変なんでしょう?」


「…あ。うん。でも…莉里のことには馬鹿になってしまう」


 背中に莉里の頭が擦りつけられる。


「私がせっかく守ったのに。律の手…」


「ごめん」と言って、莉里の手の上に手を置いた。


「ピアノ弾けないけど、ずっと律のこと愛してる。私はどうやったら伝わる? 律はピアノ弾けるからいいけど…」


 可愛いことを言うから、俺は莉里の方に向き直って抱きしめた。


「何もしなくても伝わるよ」


 こんなに細くなってしまって。俺は莉里を不幸にしていた。


「本当に? 離れてても大丈夫?」


「大丈夫じゃないけど…。頑張る」


 莉里の大きな目を閉じさせようと瞼にキスをする。


「私も…」と言いながら、莉里の手が俺の首の後ろに甘えるように回る。


 キスも莉里からしてくる。本当に珍しくて、くらくらする。莉里をベッドに運んで、その上に覆いかぶさる。髪の毛一本までも愛おしい。


「すごく好きだってこと、分かってから帰国して」


「律も。もうあんな無謀なことしなくていいくらい、私が好きだってこと」と言って、莉里がまたキスをする。


「分かって」


 そんなことを言う莉里の口をキスで塞いで


「んー。どうかな」と言った。


「え? どうして」


「まだちょっと分からなくて…」と莉里の耳にキスをしながら言う。


「律」と怒ったような恥ずかしそうな声で呼ぶ。


 分かってる。本当はすごく分かってる。莉里の髪を手で掬う。頬に唇を当てると、


「大好き」と莉里から言って腕を背中に回してくれる。


「もっと好き」と俺は言うと、莉里の眉が少し困ったように曲がった。


「もっともっと好き」


 言い合いになって、笑ってしまう。


 ずっと、ずっとこうしていたい。


 ねぇ、莉里。どうして姉弟なんだろうね。


 こんなに好きになるのって、幸せなことなんだけどね。


 でも結婚なんかしなくてもいい。一緒に側にいよう。ずっと、遠い未来も。


 細い指を絡ませてくるから、その手を取って口づけた。二人の間にもう悲しいことが起きないように、願いを込めて。


 夢のような二日間はあっという間に過ぎていった。

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