第62話
忘れたいのに忘れられない
莉里からメールも手紙も届かなかったし、あの人も何も言ってこなかった。ただ毎月、決まって日に振り込まれている金額は律儀に一定額だった。
「もう…いいかな」と俺は呟いた。
莉里のことも、あの人に復讐することも…もう何もかも執着することはなくて。フランスにいれば、違う空気を吸って、毎日違う人と会って、ピアノ弾いていたら過去は遠くなる。
メアリーのせいで、というかおかげで俺は忙しくしていた。モナコが終わっても、今度はドイツだ、イタリアだ、と引っ張りまわされた。その分、稼ぐこともできたし、何より莉里が遠くなった。もう二度と手に入らない時間をいつまでも懐かしんでいても…と思うようになった。ニューヨークの前に、アメリカのボストンでメアリーと演奏できた。
「リツ、世界一周するわよ。次は北京」と言う。
東京じゃなくて、良かった、と思いながら俺はメアリーと演奏をして回る。メアリーの伴奏者のような形で名が売れた。
毎回、毎回、目まぐるしくて、ホテルで倒れ込むように眠る。こんなに忙しいときっと記憶は薄れる。楽しかった記憶も辛い思いも、あの優しい匂いも。
今が何月で、どこにいるのか分からなくなってきた。
シンガポールの公演の後、ちょっとスケジュールに余裕ができたというから、ホテルのプールに行こうとメアリ―が言う。
「夜に?」
「夜だから人、少ないでしょ? 私もリラックスしたいし。それに蒸し暑いー」とメアリは声を上げる。
「空調効いたとこしかいないじゃん」と言ったけど、結局、付き合うことになった。
夜のプールは予想と違って、割と人がいた。大人が多かったけれど、中国の富豪らしいファミリーもいて、思ったより賑やかだったから、少しほっとした。
「リツ、喉乾いた」と真っ赤なビキニを着たメアリーが俺に注文する。
「はいはい。何飲むの? ミネラルウォーター?」
「スイカジュース」
俺は
「泳いでくる」と言うと
「リツ、泳げるの?」と驚かれたから心外だった。
「泳げるよ。普通に」
「えー。すごい。普通泳げないよ」
「え? なんで? 学校で泳がされたよ? 二十五メートルとか…」
「学校のみんなで近くのプールに行くわけ?」
「ん? 普通に学校にあるけど」
「お金持ちの学校?」と目を丸くする。
「いや。普通の公立の学校で…。小学校から水泳の授業があるよ」
「日本ってすごい」
「そうかな? え? じゃあ、メアリーは泳げないの?」
「うん」と言って、にっこり笑って、綺麗な水着姿でポーズを取る。
「…? あのさ。蒸し暑いって言ったよね? で、そのビキニ…は何なの?」
「うーん。水には入るけど、泳がないよ」
「…何それ?」
「だって泳ぎ方知らないもん」
丁度ウェイターが注文したスイカジュースを運んできたから、俺はプールに入った。プールの底に照明があって、青いタイルが不思議とゆらゆら光る。このまま水に溶けれたらいいのに、と思いながら泳いだ。久しぶりに体を使うと息が上がる。水に浸かっていると、自分の体からいろんなものが溶け出す気がした。ここ最近の恐ろしいスケジュール。舞台にこんなに連続で上がるなんて、正気の沙汰じゃない。演奏したこと全てが流れ出した気がする。
「どこの演奏が一番良かったかな…」
振り返る暇もなかった。でもそのおかげで莉里のことを考えずには済んだ。プールにあおむけに浮かぶ。空に月が浮かんでいる。このまま底まで沈みたい。
「リーツー」とメアリーの声が聞こえた。
お姫様がお呼びだと思って、体制を変えて泳いで戻った。
「何?」とプールの淵から上がろうとすると、メアリーが近づいてきた。
「泳ぎたいから、教えて」
「え?」と言っている間にプールに入る。
ぎりぎり足がつく深さで、メアリーは慌てている。
「掴んで」と腕を出した。
「あ、ありがとう。結構深いね」
「うん。あのさ、暴れなかったら沈まないから」
「え?」
「力抜いて、体横にして。それで顔、水につけて」
「えー。嫌、死んじゃうじゃない」
「十秒くらい息止めても死なないよ」
「いや、いや、怖い怖い」
面倒くさいお姫様だな、と思って、体をくると回してあおむけにして、腰の下に手を入れて支える。
「え? 何?」
「浮かんでるから、ほとんど浮力で」
「でもリツが腰、支えてるでしょ」と言って起き上がらろうとするから、頭を軽く押さえる。
「支えてないよ。こうしておなか突き出して、顎上げてたら、沈まないから。ほら、空見て。月が綺麗だよ」
「…ほんとだ」
少し大人しくなったメアリーの腰を腕に乗せて、俺も空を仰ぎ見た。夜空の月だけは世界中、どこで見ても変わらない。
「…ロマンティックね」
「そう? 良かった」
「でも泳ぐのとは違うね」
「まぁ、このまま足をゆっくり動かして、手を動かしたら泳げるけど…。今日は無理じゃない?」
「そっか…」としばらく空を見ていたが、メアリーは「もういい」と言う。
腰の手を引くと、すっと体が沈んでいったから、メアリーが慌てて俺の肩に捕まった。普通に胸が当たるから、困る。
「リツ…。明日から、私、東京なの」と耳元で言われた。
「え? 東京?」
「東京は、えっとなんか、現地の日本人のピアニスト使って欲しいって言われたから、リツはこのまま帰って」
「あ、そうなんだ」
お役御免か…と思うと何だか悔しいけれど、日本に行かなくて済んだことの安堵感も同時に感じた。
「ごめん。本当はリツとがいいけど。なんか…条件があって」
「あぁ、いいよ。別に」
「ちょっと気にしてよ」
「あ、うん。まぁ、俺よりは上手くないと思うけど、頑張って」
「そっけない」と近寄って、メアリーが俺の目を覗き込む。
唇を合わせたら、合わせられる距離だった。一瞬、ふらっと落ちそうになる。その瞬間、あのピンク色の唇を思い出してしまった。
「メアリー。ありがとう」と言って、俺はそのままプールサイドまで一緒に移動する。
「リツ…」
「明日移動だったら…もう部屋に戻ろう。俺も疲れた」
ふらっと落ちそうになった時、もう忘れられると思った唇が蘇る。莉里とは違う唇、頬、鼻、まつげ、瞳、肌、匂いなのに、鮮烈に莉里が浮かぶ。
「リツ? 私…」
「メアリーとはまだまだ一緒に演奏したいから。帰ったら連絡して。またね」と言って、俺はそのままプールを後にした。
一人でベッドにもぐりこむ。
(結局、忘れられないんだよなぁ…。まだ…)
でもピアノに没頭していれば、考えなくて済むということが分かった。メアリーと一緒にあちこちで演奏して分かったことだった。満場の観客から受ける称賛と拍手はそれなりに満たしてくれた。
「莉里…。頑張るから。傷はもういたくない? …体の具合だけ教えて欲しい」
そうして一人でずっと莉里に話しかけているといつの間にか眠ってしまう。
翌朝、メアリーに起こされた。
「はい?」と電話を取ったら「リツー。先に帰って、プーランク練習してて。詳しい事はメールするから」と言われた。
「え?」
「また演奏しようって言ってくれたでしょ?」
「…言った」
「じゃあ、トウキョー行ってくるね。お土産いる?」
「いらない」
俺は起き上がって、ぼんやり窓を見る。湿度で窓が水蒸気がびしょびしょに曇っていた。
そうして俺はなぜかメアリーと一緒に演奏することが多くなったし、室内楽や、チェロのソリストからも声がかかることが多くなった。
(…伴奏者かぁ)
自分の人生をそろそろ考えた方がいい、と思った。音楽家として食べていけそうなめどがつきつつあった。でもどんな演奏家になるかは自分で決めなければいけない。
夏が近づいている。ニューヨークの公演もある。
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