第61話

友情と約束


 莉里がいない部屋で一週間、呆然としていた。ピアノもまったく弾かなかった。マシューも来なかった。

 ご飯は固いパンをかじった気がする。とにかく記憶がなかった。


 事務所からの電話で夏のニューヨークのことを思い出した。


「あ、はい…」と日本語で返事して、自分でも完全にポンコツになったと思った。


 メアリーから連絡が来て、パリに来ているから晩御飯でも食べようと誘われた。久しぶりに鏡を見て、頬が落ちて、ひげが伸びている自分の顔が怖かった。のろのろと顔を洗って髭を剃る。剃ったら顔色が悪くて、どっちにしろ気持ち悪い。


 莉里がいたらなんやかんやと食べさせてくれていた。少し齧られた固いパンがテーブルの上に放置されている。


 思い立ってシャワーを浴びた。少しだけさっぱりして、着替えもする。ずっと着ていた部屋着を洗濯機に放り込んだら、莉里と使っていたシーツが入ったままだった。洗剤を入れて洗濯を始める。莉里の匂いが流れていく。




 夕方、待ち合わせ場所に行くと、メアリーが驚いたような顔で俺に近づいてきた。


「どうしたの? 病気してたの?」


「あ、いや、大丈夫」


 俺は微笑もうとしたけれど、頬の動かしかたが分からなかった。


「リツ? 大丈夫じゃなさそうよ? 何があったの?」


 俺は首を横に振った。何もない。記憶喪失なんだから、とメアリーにさえ嘘をつく。そんな俺に愛想をつかすかと思いきや、メアリ―は俺の手を取って、レストランに入る。


「しっかり食べなさい」と言って、勝手にステーキを注文した。


 俺は黙って椅子に座る。


「ねぇ…。あの指揮者になんかされたの?」


「え?」


「でもあの人、悪口言う時は認めてたってことだからね? 本当にどうでもいい人には悪口すら言わないから」とメアリーが言うのをぼんやり聞いていた。


 指揮者…。なんか言ってたっけ? と考えても出てこない。


「違うの?」


「えっと…」


「コンチェルトしたでしょ?」


「あ。あぁ。そっか。うん。悪口言われたような? 覚えてないけど」


「…どうしちゃったの?」


「ほんと、どうしたんだろう…。もう…」


 心配そうなメアリーの顔を見ていると、莉里がいつも心配してくれたことを思い出した。このままじゃいけないことも分かっている。一週間、時間を無駄にしたことも。


「リツ…。苦しそうだけど…。もしかして…失恋した?」


「…そうなんだ」


 素直に言えた。具体的には説明しなかったけど、メアリーはその一言で納得してくれた。


「辛いね…。私は…恋なんて分からないけど。でも大切な人を失う辛さは…分かるよ」


 そう言って、メアリーは自分の友達が亡くなった話をしてくれた。病気で、あまり外に出られないからメアリーがバイオリンを弾きに行ったりしていたという。


「彼女に聞かせたくて、小さい頃は必死に練習したの」


「…。そうなんだ」


「すごく喜んでくれたから」


 小さい頃からスターだと思っていた彼女にも過去の重さはあった。




『ねぇ。私が天国に上手に行けるように、その時は側でバイオリン弾いて。アベマリア…』と言われたことがあったそうだ。


「アベマリアって…前に弾いた」


「そう。私、その時、その子の側にいられなくて。だから…いつもリハーサルで弾いてるの。届いてるかなって」


「…そう…だったんだ」


「約束守れなかった自分が許せなくて」とメアリーは怒った顔で言う。


「…それは」


「友達との約束だから、私はずっとバイオリンを弾き続けてる。やめない。絶対に続ける。第一線にいる」と強い口調で言った。


 あの神様に愛されたと称賛されている彼女の音が作られた理由は約束だった。


「そう…だね。メアリーはすごい」


「すごくないよ。リツだって、できるよ」


「俺が?」


「自分のために演奏するんじゃない。来てくれた人、応援してくれた人、誰かのためにするんだよ」


(誰かの…ため)


 メアリーに言われて、俺は頭がクリアになった。頭が重くてずっと視界が塞がっていたようだった。


 そう。あんなに応援してくれた、最後まで俺のピアノを気にしてくれていた、そして何より身を挺してまで俺のことを守ってくれた莉里のために、弾かなくてはいけない。


「そうだ。本当に…そうだね」


「今度、モナコでコンサートするの。ぜひリツにピアノ弾いて欲しくて」とメアリーが体を前のめりにして言う。


「いつ?」


「一週間後。間に合う?」


「もちろん」


 時間がなかった。それでも弾こうと思った。曲目を聞くと、結構大変だったから、こんな直前に、と思った。


「ピアニストと大喧嘩したの。三日前に。それでこのプログラムをこなせそうな、暇そうなピアニストってリツしか思いつかなくて」と神様に愛されているバイオリニストが微笑んだ。


(暇って! 暇だったけど)


 口を開いて、何か言おうとした時、ステーキが運ばれてきた。注文した時は食欲が全くなかったけれど、今は皿まで食べれそうな気分だった。


「…一応、事務所に連絡したんだけど、連絡つかないって言われて」


「あ…。なんかそう言えば、仕事が一件さし迫ってあるけどとか…」


「断ったの?」


「…返事、どう言ったか覚えてない」


「もう。ほんと、リツは恋愛体質を変えた方がいいよ」


「別に…そんなんじゃないえけど…。とにかく食べて、すぐ帰るから。帰って練習する。合わせはモナコ、前日でいい?」


「…いいけど? それで間に合うなら」とメアリーが挑発するから、俺も「絶対、間に合うから」と言った。


「ねぇ、リツのそのお相手って…どうして別れを選んだの?」


 メアリーのその質問にどう答えればいいのか分からなかった。すぐにメアリーは諦めてくれて「ごめん、プライベートに立ち入って」と謝ってくれた。


「ううん。ちょっと…複雑で。ごめん。でも…きっとピアノを弾くのを望んでくれてるから。頑張るよ」


 そう言って、後は無言で食べた。

 別れ際にメアリーが頬を合わせて挨拶をする。

 人肌に久しぶりに触れたな、と思ったら、悲しくもないのに涙が零れた。


「え?」


「あ、ごめん。ちょっと。ごめん」


「いいよ」とメアリーは涙を指で拭いて、そのまま手を振ってくれた。


 まだ情緒不安定だけど、俺はもうピアノに向き合う覚悟ができた。


 ――約束。


 そのためだけでもピアノを弾く理由があるから。

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