第60話
嘘だらけの別れ
数日の間、俺は「お姉さん、すみません」と呪文を唱える。莉里に会ったら、そう言わなければいけない。鏡の前で目をわざと大きく開けたりして、練習してみる。本当にばかなことをしている。
あの人から莉里の荷物をまとめておいてくれと言われた。スーツケースに莉里の衣類を詰めるのは辛かった。洗濯はしたのに、莉里の匂いがする。下着はそのまま突っ込んだ。幸い、莉里はたくさんの衣装を持ってきていなかったから、あっさり終わった。化粧道具も少ない。
ベッドで眠るのも辛かった。莉里がいたシーツは剥いで、新しいシーツに交換した。それでも莉里がいる気がする。そこかしこに莉里がいる。その度に
「だれの…ですか」と気味悪いくらい棒読みで言う。
莉里が俺に未練がないように。俺が完璧に莉里を忘れた演技をしなくてはいけない。
退院して帰国する前に莉里が荷物を取りに来た。本当はあの人が来るはずだったけれど、どうしても莉里が俺に会いたいと言ったから。
俺はピアノを弾いて待っていた。もうあの可愛い声を聴くのも最後だな、と思いながら練習をする。
もう莉里を苦しめることはない。
家族を莉里は持つことができる。
莉里を傷つけたのは俺だ。
理由を何度も繰り返す。この馬鹿げたことは全部莉里のためだ。
鍵を持っている莉里は静かにドアを開けて、俺の名前を呼んだ。
「あ、あの…」と演技がかった声で俺は言う。
「記憶がないって…聞いたんだけど」
心配そうにこっちを見る莉里を何の感動もない顔で見つめなければいけない。
(傷はどう? 痛みはない? 支障なく暮らせる?)
聞きたいことが山ほどある。それでもまるで初めて会った人のように話さなければいけない。
辛くて俯いて、お姉さんのことを忘れてしまった、と言った。その時、莉里と言わずにお姉さんと言ったから、莉里が少し動いた。
そして俺は莉里に今回のことを知らない体で謝った。それなのに莉里は相変わらず優しくて、逆に俺がピアノを弾けることを心配してくれる。でもその声が震えていて、視線は斜め下を向いていた。
(ごめん。抱きしめたいけど、もう触れることもできないんだ)
手を伸ばしそうになるのを必死で堪える。左手で右腕を掴む。
「荷物をまとめるから」と莉里が言うので、先日まとめたのをあの人がしたことにした。あの人のことをお父さんと初めて言う。そんなこと言ったから莉里も我慢の限界が来たようだ。
莉里が「ありがとう」と言いながら、涙を零した。
ぎこちない態度でティッシュを渡す。莉里が涙を拭いて、俺に
「ちょっと入れ忘れているものがあると思うから、寝室に行っていい?」と言う。
莉里は何かを取り出して、俺の前に差し出した。モンサンミッシェルで買ったマグネットだった。
「これ…。記念においておくね。ピアノ…頑張ってね」
震える指で渡してくれる。
その指ごと掴みたかった。
なんなら強く体を引き寄せて抱きしめたかった。
ここにいてって叫びたかった。
身体の中からなにか沸き上がるものを必死で堪えて、モンサンミッシェルのマグネットを受け取る。出せた言葉は通り一遍の返しだった。
(莉里…幸せになって欲しい)と手の中のマグネットが壊れる勢いで拳を握る。
それなのに、莉里は「ずっと応援してる」と泣きそうな笑顔で言ってくれる。
(最後が泣き顔なんて…ごめん)
もう顔が見れなくて、また頭を下げた。莉里はそれ以上、何も言わずにスーツケースを引っ張って、そして扉を開けて出ていった。
莉里が遠くへ行ってしまう。
少しも動けないまま、俺は閉まる扉にずっと頭を下げ続けた。
(どうか莉里が傷つきませんように)
そして早く俺のことを…忘れますように…と思ったら、床に涙が落ちて広がった。
あの時の別れとは違う。完全に永遠の別れだ。
後で聞いたけど、莉里は隣のアルビンに挨拶をしていったようだった。アルビンは本当のことは教えなかったけれど、
「彼と過ごしたら? 思い出すかもしれないよ」と言ってくれた。
どうにか莉里を引き留めようとしてくれた。
「また戻ってくるだろう?」というアルビンの言葉に
「もう、二度と来ない。本当に幸せだったから」と返したらしい。
そして最後にマシューに日本語で「愛してる」って言ったらしい。アルビンは世界中の愛してると言う言葉を知っていたから分かったって言ってた。
「それ、本当は君に言いたかったんだと思うよ」
心臓が破れて大出血しそうだった。胸を押さえて笑った。自分が馬鹿で情けなくて仕方がなかった。
(莉里…。俺も愛してる)
言いたいこと、伝えたいこと、何一つ言えなくて終わった二人だった。
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