第59話
覚えている
俺は自然と莉里の前に出た。ナイフを手にして、笑顔で何か莉里に言っていたが、すぐに俺に向かって走り出した。
(これで終わりになるならよかった)と俺は思った。
一気に心臓を差してくれたら、やっと莉里を解放できる。俺が胸を突き出そうとした瞬間、後ろにいた莉里が前に出た。
「莉里」
一瞬だった。
叫んだのも、莉里が刺されたのも、俺が莉里の体を引いて、後ろに倒れたのも、全て一瞬だった。
(間に合わなかった)
俺の手に温かいものが感じられる。莉里はぐったりと意識がない。
刺した緑ちゃんも赤く染まっていくのを見て、震え始めた。
「救急車」とあの人は叫んでいる。
緑ちゃんがナイフを抜こうとしたから、俺は手を叩いた。
「触るな」
そしておろおろしている母親に莉里の体を預ける。救急車を呼んで、その間に、アルビンにも声をかけた。アルビンは下に降りて救急車に合図をしてくれると言った。
あの人は割と冷静に緑ちゃんに話しかけて、状況を聞き出す。まだ若そうな彼女では話にならないと踏んだのか、両親に電話をかけさせた。
救急車が到着するまで、莉里の母親は莉里の頭を膝に乗せ「大丈夫」と繰り返していた。俺は緑ちゃんに殴りかからん勢いで襟もとを掴んで、立ち上がらせる。つま先立ちになり苦しそうに顔が歪む。
電話を終えると、あの人は緑ちゃんが一流ホテルオーナーの娘だと聞いて、警察には言わないと言う。俺が睨むと
「元はと言えば、お前が悪いからだ」
激高している俺に冷静にそう言う。
莉里の顔色が白くなっていく。
そうだ。
これは…俺が原因だ。
本当は俺が死ぬはずだったのに…。
手から力が抜けて、緑ちゃんが床に倒れた。
傷は浅いと言われていたので、命に別状はないが莉里の処置をしている間、みんなずっと黙っていた。時間が少しも過ぎていかない。
「莉里が…無事だったら…」
あの人が言った。
「すぐに帰国する」
俺に拒否権はなかった。
莉里を傷つけてしまった。俺の浅はかな行動のせいで。それが胸を貫いた。
あの時、俺が刺されて死ねば良かった。
処置が終わって、無事だと確認した後、莉里の意識が戻る前に俺は一人で部屋に帰された。
「頭を打って、莉里を忘れたことにするから」とお粗末な芝居をするように言われる。
それが確実に別れられる方法だから、と言った。
少し前までは莉里に家族と縁を切ってもらうつもりだったのに、今は俺が切られようとしている。それがおかしくて、帰り道、一人で笑った。変な人を見るように人が通り過ぎていく。
「あー、このまま頭がおかしくなったらいいのに」と声を上げて笑いながら歩いた。
エレベーターが上がって、部屋の鍵を開けていると、アルビンが顔を出す。
「律…」と心配そうな顔をするから、俺は部屋に立ち寄った。
アルビンが温かい紅茶をいれようとするのを止めて言う。
「莉里のこと…忘れてしまったんだ」
「え?」
「何も…思い出せない」
アルビンが不思議そうにじっとこっちを見る。目が青くて透明でまるでガラス玉のようでなにも映っていないような気がするから、安心して言えた。
「莉里と過ごしたこと、スペインや、モンサンミッシェルに旅行したこと、よく角のブラッスリーで晩御飯を食べたこと、これからのフォーを食べに行く約束、何一つ覚えてない」
「覚えてないって…言って…」
「側にいてくれて楽しかったこと、だからこそ辛かったこと…莉里のために弾いたピアノ曲も全部…忘れてしまったんだ」
「律!」
「俺のせいだから…。こんな目に合わせて…。もう…一緒にはいられない」
「…。莉里を刺した若い女の子と付き合ってたの?」
「付き合ってなんかなくて、遊びだった。だから…俺が悪い」
「…莉里は無事だった?」
「あ、うん。ありがとう。無事だったよ」
アルビンは少し黙って「でも君の方が大けがを負ったように見える」と言った。
「そうなんだ。少し頭がおかしくて。強く打ったせいかな。泣きたいのに、なんでか笑ってしまう。笑いが込みあげて止まらないんだ」とまた声を上げて笑いそうになる。
アルビンはやはり紅茶を入れてくれた。そしてそれをカップごと渡してくれて、俺に自分の部屋で休むように言ってくれる。
「しばらく笑い声が聞こえるかもしれないけど」
「いいよ。別に音は全く気にしたことがないから」
受け取った温かい紅茶のぬくもりがじわじわと正気を戻しそうだった。お礼を言って、自室に入った。莉里が慌てて隠したせいで、俺が一人で住んでいるみたいに思えた。
でもいい加減な隠し方だったから、バスルームには莉里の洗濯物が紙袋にまとめられていたり、今朝使っていたマグカップが冷蔵庫から出てきたりした。
「だれの…だろう」と冷えたマグカップを手にする。
一人芝居を始めた。
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