第58話

絶望 


 両親が来る日、莉里はパタパタと部屋の中を動き回っていた。なるべく二人で過ごしているのが分かる痕跡を消そうとしている。


 今日は日曜日だから、中華街に行きたかったなぁ、と思って莉里に言うと驚いたように聞き返してきた。


「一緒にフォー食べるって言って、なかなか行けないから」と俺は言った。


 日曜日はなんやかんやと予定が入って、前から行こうと言っていたフォーを食べに行くことができていなかった。莉里は一人で買い物に行ったりしていて、その隙に食べていたようだったけれど、俺は一度も行ったことがなくて、いつか一緒に食べたいな、と思っていた。


 一瞬、呆れたように、同意してくれたけど、また慌てて洗濯物を抱えて、お風呂場に隠しに行く。その様子がちょっと可愛くて、見ていた。


(数時間後には全てが終わってる)


 そう思うと何もかもが怖くない。時間は決して止まってくれないのだから。楽しい時間も嫌な時間もいつか終わりが来る。


(莉里、ごめんね。きっと…親子の縁を切ることになる)と俺は心の中で呟いた。


 落ち着かない様子でクッキーをお皿に並べている莉里に近づいた。莉里の携帯が鳴って、もう下のドアに立っているからドアの解除番号を教えて欲しいと言う事だった。莉里の指が震えながら番号を押している。


「莉里」


 震える指で教え終えた莉里が顔を上げたから、キスをした。初めて莉里に抵抗される。でも離さなかった。


(莉里。絶対、俺を選んで)


 手で胸を押されるから、莉里の後頭部を大きな手で掴む。


(あの家にもう帰らないで)


 焦った莉里は目を開けて、身じろぎしようとするから、今度は反対側の手で腰を引き寄せる。


(辛い時間が来るけど、少し我慢して)


 莉里の舌が微かに抵抗するけれど、俺はその舌と深く触れ合う。莉里が泣きそうな声を出した時、呼び鈴が鳴った。


(すごく傷つけるかもしれないけど)


 もう一度鳴る。


(俺を信じて)


 苛立ったように三度目がすぐに鳴った。少しは待てないのかな、と莉里を離す。


「律…」と肩で息をしている。


「出るよ」と俺は扉を開けた。


 挨拶もなく、二人は入って来た。莉里のお母さんの方はもうすでに目が赤くして、莉里の方へ一直線に向かう。素早く莉里の前に俺は立って、自分が悪いと言った。


 そして予想通り「どうして…。全部。莉里まで…。あなたたちは…私から…何もかも奪うの」と泣き出した。


 その涙を皮切りに、傷つけるだけの話し合いが始まった。血が繋がっているから、と反対される。それは当然だろう、と思った。莉里が俺の子を妊娠する可能性にも触れられた。


 あの人は俺に跡取りの期待をしていたのだろうか。避妊手術を俺がしていると言った時、一瞬、息を飲んだようだった。



(残念だったな。息子が…種なしになって)と少し愉快な気分で笑う。


「何より子供が被害者になると思うから」


 そう言ったら、眉毛が近寄った。


(俺たちはあんたの被害者なんだ)と暗に分かるように言った。


 莉里の母親は受け入れ難かったようで、莉里が何とかなだめようと言葉を挟んだ。


 少しもその言葉が届かないようで、莉里の母親は即刻帰国して、莉里を結婚させると言う。自分が哀しい結婚をしているというのに、娘にもそれを強要すると言う。 


 はっきり言って、アタオカだ。


 浮気する夫とそれでも別れずに辛い時間を過ごして、それでもなお――。


「娘に結婚を強要する程、幸せでしたか?」


 その場を凍らせた。


 母親が言う「莉里がいたから」という回答は全てを莉里に負わせるものだった。俺は苛立って、さらにひどいことを言おうとしたら、莉里が離婚しない理由は自分のせいか、と聞く。


「私が勇気がなかっただけ」と俯いて言う。


 そこは母親として何か思うところがあったらしい。


 そしてそれは莉里の心に沁みて行ったのが分かる。


 もっと本当にアタオカだったら――莉里は両親を捨てられたのかもしれない。


 結局、あの人は莉里の今の学校が終わるまでは見逃すと言ってくれた。その後は莉里が日本に帰国すること。そして日本で勉強する分は援助すると譲歩した。


 莉里の母もあの人もぎりぎりのところで人の心を持っている。相当、自分勝手な生き方をしているのに、最後のラインでとどまっている。


 だから莉里も完全には親子の縁を切れない。


 絶望した。


 きっと莉里は日本に帰ってしまう。


 項垂れた母親に「帰国しても…結婚しないから」と言っている目が潤んでいた。


(帰国は決定なんだ)と俺はため息を吐く。



 お開きな雰囲気が流れていた時、ドアが開いて、ふわっと外気が部屋に流れ込んできた。


 呼んでいない闖入者がいた。


「やっぱり気持ち悪い」


 手にナイフを持った、かつての交際相手、緑ちゃんがいた。

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