第57話

初恋


 モンサンミッシェルを莉里はずっと眺めている。対岸のホテルで、ベランダからモンサンミッシェルが見える。祈るようにじっとしている。その横顔が綺麗で、俺はそっちばかり見ていた。


「律…。本当に不思議ね。海の中にあるなんて」


「うん」


 そう言いながらも俺は莉里を見ていた。


「莉里…」


 呼びかけたら、ようやくこっちを向いてくれた。


「何?」


 ふわっと微笑みながら俺を見てくれる。


「フランスに来てくれて…ありがとう」


 そう言うと、目を大きくする。


「邪魔じゃなかった?」


「ううん。忘れようと思ってたから…最初は辛かったけど」


「え?」


「初恋だから」


「初恋?」


「あの時から、ずっと。でも…叶う事ないって思ってて」


 莉里は困ったような笑顔を見せて「だから…急につれなくなったの?」と聞いたから、頷いた。


「これ以上、好きにならないように。でも…莉里が近づくから…」


「…ごめん。私…りっちゃんに距離を取られて…悲しくて」とまた小さい頃の呼び方に戻る。


「だからここに来てくれた時は本当に複雑だった。忘れるために来たのにって」


「…私、ずっと気にしてたのに連絡もくれないし、嫌われてるって思ってたから」


 俺もモンサンミッシェルを眺める。


「頑張って嫌おうを思ってたところだった」


「えぇ」


「それなのに、やっぱりできなかった。それに…好きになってくれてありがとう。って、好きだよね?」


「好きだよ。好き。すごく好き」と莉里が慌てて言う。


 これで良かったのか本当に分からないけれど、もう止められなかった。


 初恋は叶わないって言う。でもそれが叶って、お互いの気持ちが一致してるのなら、神様に認められなくても。あの人達に拒否されても。手を離さない。


 


 夜、何度も「愛してる」と莉里が言ってくれる。まるで慰められている気持ちになる。それが小さい頃の傷まで埋まっていく。


「莉里…ありがとう」


「え? どうして?」


「初恋が…叶ったから」


 優しく莉里の手が背中を軽く撫でてくれる。


「ずっと一人だと思ってたから」


 莉里が首を横に振る。一人で生きるのには人生は長すぎる。


「…私は律の家族で、恋人だから」


「本当に、そうだ」


 やっていることは最低かもしれない。莉里の肌に口づけの跡をつける。鎖骨下に赤いマークが浮かぶ。眠そうな莉里を腕に抱いて、俺はずっと莉里の瞼が落ちたり開こうとしたりしているのを眺めて、ついに閉じられたのを眺める。


 莉里を帰国させたくない。最悪、あの人の援助は切られるだろう。それでも、ホテルでピアノを弾いてでも俺は莉里とここで暮らしていく。そう覚悟を決めると、アドレナリンが出たのか眠れなかった。瞼から伸びるまつげも、小さな口も何もかも俺の腕の中にあるのだから、絶対に渡さない。


 寝不足だったけど、莉里は早朝には起きて、俺を起こした。朝のモンサンミッシェルを見ようと言う。二人で開けていく空と海とモンサンミッシェルを眺めた。白んでいく空がすごく不思議な気分だった。


「夜になるのはよく見るけど、逆再生みたいで…」と俺が言うと、莉里が頷いた。



 そしてパリに戻った夜、莉里に電話があった。週末に莉里の両親が来ることになった。莉里はまた焦り始めて、その時は俺にレッスンに行っててもいいと言う。



 そんなことになったら、莉里は連れて帰られるというのに、と俺は立ち向かうことにする。週末までまたため息の日々が続くと思うと気が重いので、俺は莉里となるべく出かけたり、一緒に料理した。結構楽しく過ごせたのに、夜は拒否されてしまう。


「莉里? どうして? 嫌になった?」


「違うの。お父さんたち来るでしょ?」


「で、どうしてダメなの?」と聞くと、枕を軽く投げつけられた。


 大抵お願いごとは聞いてくれるのに、不思議で、枕を横に置いて、もう一度お願いしてみる。


「だって、律、キスマークつけたりするじゃない。この間のまだ消えてないから、ダメ」


「あー。ごめん。じゃあつけなかったらいい?」


 莉里はやっぱり寛大だ。お願いごとはなるべく聞いてくれる。


「見えないところだったらいい?」


「もう」とまた枕を投げられる。


 そうやって、ふざけて気を紛らわそう。膨れていた莉里も笑い始めた。こんな時間が永遠に続くと思ってた。



 初恋ってやっぱり叶わないのかな。

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