第56話

モンサンミッシェル



 あの電話があってから、莉里はずっとおちこんで、深いため息を何度もついている。笑顔もなんだか作ったような感じで見ていて心が痛んだ。莉里は留学資金について心配していた。留学生で、少しアルバイトしてるとは言え、たいした金額にもならず、学費を払えるほどではない。母親の保険金があるから学費の心配はしなくていい、と俺が言ったら、莉里はきっと断るだろうし、逆に慌てて帰国するだろう。そのことは伏せておいて、俺はまず、親子の縁を切ってもらおうと考えていた。


 それがいいのか分からないけれど。


 でも二人がここで暮らすのはその方法しかかった。


 そして俺は急いでピアノをレベルアップさせて二人で生活できるようにするしかない。


 


 練習に熱が入る。


 でも。


 ピアノを弾く。莉里のため息を聞く。


 ピアノを弾く。莉里の落ち込んだ横顔を見る。


 ピアノを弾く。…項垂れた後ろ姿を見る。


 どうにもできない自分に苛立つ。


「あー。煮詰まる」と言うと莉里の肩が跳ねた。


「ご、ごめんなさい」


「違う、違う。旅行に行こう」


「…りょこう? 旅行!」


「ほら、こうして二人でため息ついて…同じ時間を過ごすんだったらさ、折角だから旅行に行こう。モンサンミッシェルは?」


 言い終わるやいなや、莉里が抱き着いてくる。久しぶりに莉里の明るい顔を見れた気がした。



 いつか行ってみたかった。でもパリから少し時間がかかるので、今まで行ったことがなかった。そして海に浮かぶ修道院は潮の満ち引きが早く、かつての巡礼者たちが何人も命を落としている。そういうエピソードもあって、行きたいけど…なんとなく行き辛い場所だった。ただ対岸から眺める姿の美しさは見ておきたかった。




 モンサンミッシェルではお上りさんよろしくオムレツを食べて教会までの道をそぞろ歩く。道の脇にお土産屋さんが並んでいて、莉里はいろいろ見ていた。結局、べたなモンサンミッシェルの形したマグネットを買っていた。


 風が強くて、雲が流れるのが早い。途中にあるサンピーエール教会に大天使ミカエル像があるというので、莉里が見たがる。


「あー、本物の…ミカエルだ」と莉里が銀色の像を見て言った。


「本物って…」と俺は突っ込むと、莉里はじっと俺の顔を見る。


「怒られちゃうかもしれないけど、律の方が男前」と言うから何を言い出すのかと驚いた。


 銀色の像は剣を振り上げ、魔物を退治している。


「…罰が当たるよ。そんなこと言ったら」と言うと、莉里がふふふと笑う。


 そしてしばらくじっと見て


「昔の人は魔物を退治して欲しいって…お願いしたのかな?」と呟く。


「そうかなぁ。魔物って…なんだろうね」


 ぼんやり言った一言を莉里は少し考えて、涙ぐむ。


「律…。私…大天使ミカエルに…」と言って口を閉ざす。


「何かお願いごと?」


「ううん。なんでもない」


 哀しそうに笑って、首を横に振る。


「…願い事は叶うと思うよ」と言うと、莉里は目を大きく開けた。


 莉里が口に出せなかったことが俺には分かった。あの人たちが来なければいいのに。でもそれはきっと叶わない。あの人たちは何が何でも来る。ただ俺が追い返すだけだ。


 莉里の手をしっかりと掴んで坂を上っていく。風が煽る。


「律…」と言った莉里のスカートが膨らんだ。




 教会というのは少し怖い場所だ。音が響くし、いろんな人の祈りが詰まっていて、天井が高くても苦しくなる。石の壁がそうさせているのかもしれない。ガラスを通して薄くなった光が入って来る。何百年もここに人が訪れ続けている。


「莉里…」と言って、握った手に力を籠める。


 俺たちは神様の前では誓えない。生涯一緒にすることも宣言できない。そもそも俺が生まれたのだって、本当は許されないことだった。存在自体が――この場にふさわしくない。


「外に出よう」


 莉里は何か分かったような感じで俺の手を引いた。


 表に出ると太陽の日差しと海風のせいか重い空気から解放された。



 白い回廊を歩いていると、莉里が俺にお礼を言う。 小さい頃、莉里の母親は不倫相手に夢中になっている夫に悩まされ、自分のことで頭がいっぱいだったという。莉里はその母親に気をつかって、いい子でいたらしい。そして少しでも愛してもらえるようにずっといい子を続けていた。結局、自分を見てはくれなかったと分かったけれど、俺に会って、愛されて、自分で息ができるようになったと言った。そして俺にずっとピアノを弾き続けて欲しい、と言った。一旦、日本に戻ることになるかもしれないけれど、必ず戻ってくるから、と。


(相変わらず自分のことは置き去りだ)


 俺が唇を噛んだ時、莉里が不思議な事を言った。


「律はきっと神様から愛されてるから…」


「え?」


 そんなことない。愛される人間じゃない。一度も思ったことない。神様だけじゃなくて、莉里以外、誰にも愛されたことない。


 白い回廊でポーズを決めた観光客たちが撮影している。


「…きっとみんなに愛されるからピアノは…弾いて。ここで」


 海風が柔らかく二人を抜けていく。


「律…愛してる。神様に誓っていい」


 莉里は帰国を決意していたんだと思った。それも俺を守るために。


「俺も誓う。莉里のこと、愛してる」


 神様の前に足がすくんでしまっても。


 許されなくても。

 

 俺は誓った。



 観光客がいる中で、俺は莉里の頬に手を添えてキスをする。教会の中では誓えない二人だから。海風の匂いに莉里の優しい香りが紛れる。

 

――俺がどんな罰を受けても構わない。一緒にいたいから。

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