第63話

忘れないで


 鬼のようにピアノ練習していたら電話が鳴った。


「はい」とぶっきらぼうに言ったら、いきなり怒涛の如く怒られた。


 誰だ、と思ったらあの指揮者だった。コンチェルトをしてやったのに、なんで伴奏やってるのか、と怒っている。別に伴奏は好きだし、他の人と音楽作るのは楽しいし、何よりお金になったから嫌と思ったことは一度もなかった。


「メアリーちゃんが好きなわけ?」と指揮者に聞かれる。 


 返答に困っていると「オーマイゴー」と叫ばれたから、耳が痛くなる。


「メアリーはすごくいいバイオリン奏者だと思ってる」


「それだけ? それだけであんな世界一周する? 結婚したかと思ってたよ」 


 何の話か分からなくなる。


「リツ…。私が選んでコンチェルトしてあげたんだから、君はもっと頑張るべきだと思ってる」


 そこから長々とお説教が続いて、コンクールを受けろと言われた。今更コンクールって、と思ったけれど、拒否したら何だかものすごく面倒な事になりそうなので、受けることにした。


 電話を切って


「で? 何だったの?」と一人で言って笑う。


 窓にはマシューがいて、開けて欲しそうにこっちを見ている。俺は窓を開けて、マシューを招き入れた。


 顎下のふわふわの長い毛に指を入れて、触る。


「莉里がいなくなったけど…何とかやっていけそうな気がしてる」とマシューに言った。


 それにマシューは返事をしてくれなかった。




 則子さんからメールが来ていた。久しぶりに夕飯を食べないか、というお誘いだった。すごく久しぶりだったし、ちょうど開いている時間だったので、でかけることにした。それが二十区のアフリカ料理屋さんだった。


 駅で待ち合わせて、思い出した。俺の絵を桃花さんが描いた絵が飾っている店があるはずだった。莉里にはなんとなく言えなくて、来たことがなかった。まだ店はあるのだろうか、と懐かしく感じる。桃花さんから一度もメールが来ない。きっとうまく行っているのだろう。優しい人を思い出していたら、思わず頬が緩んだ。


「あ、お待たせ。 なんか…幸せそう」と則子さんに言われた。


「いつも幸せだけど?」


「そう? ならよかった。ご飯食べに行こう」と先を歩かれる。


 あのレストランだったら気まずいような、嬉しいような戸惑いを感じた。


「どうかしたの?」


「ううん。別に…。いや、別にってわけでもないけど」


「なに?」


「ちょっと…入りたい店があって」


「いいけど?」と則子さんが言うから、俺はあの店を探した。


 大通りに面しているから、迷うことはなかったはずだけど、見つけることができなかった。


「どうしたの?」


「いや…。見つからなくて…」


「記憶喪失…だっけ? 無理しないで」と則子さんに言われる。


 結局、則子さんが予定してくれていたレストランに向かった。アフリカ料理で見たことも食べたこともないものばかりだった。スパイス味の豆やら肉やらが並ぶ。


「何か気になるお店があったの?」


「そう言うわけじゃないけど…。プロポーズした場所で」


「え? お姉さんに?」


「お姉さん?」


「律君、お姉さんのこと思い出せないんでしょ?」


「…お姉さんにはしてないよ」


「え? じゃあ、誰?」


「…絵の勉強に来た人」


 則子さんは驚いたように俺を見た。


「…その人が好きだったの?」


「うん。まぁ…。優しくしてくれたし…」


「私、てっきりお姉さんかと…」


「どうして姉と? 則子さん、…姉と…メールとかしてる?」


「時々…。本当にたまにだけど…」


「そっか」と俺は元気にしているかどうかだけ知りたかった。


「あ、最近のメールでは…大学院を受けるって言ってたわ」


「大学院?」


「フランス語をもっと勉強したいって…」と近況を教えてくれた。


「元気そうで…よかった」


「本当に思い出せないの?」


「何が? 姉のこと?」


「莉里さんのこと…」


「…うん」


 莉里とメールをしているのならなおさら言えなかった。でも莉里が前を向いていることが知れて、心から良かったと思った。


「それでその…プロポーズした人は…どうなったの?」


「振られた。その人がずっと好きな人がパリまで迎えにきたよ」


「え? 律君が振られることあるの?」


「あったよ。現に」


 アフリカ料理はスパイスが効いてるがそんなに塩気が強いわけでもない。少し塩を振った。


「…まぁ、それで…ってわけじゃないけど。お姉さんも頑張ってるし、律君も頑張ってるし、私もそろそろラジオフランスのオケに挑戦したくて…。まずは小さなオケでもいいから欠員募集を必死で見てるところ」


「そっか。欠員募集なんてなかなかないだろうね」


「そう。だから、オケのコンバスにお年寄りがいないかチェックしてる」と結構真剣なまなざしで言う。


「怖いよ」と言うと、則子さんは笑った。


「まぁ、それだけ本気ってことよ。律君は伴奏者で結構、顔が広まってるじゃない。あの天才バイオリニストの。それで杏ちゃんがすごく怒ってたわよ。あの高額な楽器を握りしめて」


「壊さなきゃいいけど。…でもコンクール受けようかと思って」


「また?」


「また。…今更…っていう気もしつつ」


「まぁ、チャレンジすることは良い事よね。…お姉さんに言っても大丈夫?」


「え? どうして?」


「…あ、うん。お姉さんが気にしてるから」


 その一言が胸を刺した。


「ごめん。…連絡してなくて。後ろめたくて」


「そうみたいね。直接は聞いてこないけど、でも…心配なのが伝わるの。『みなさん、お元気ですか』って…。最後も『どうか皆さんのお体がお変わりありませんように』って。それって、私だけじゃないし、きっと…ううん。絶対、律君のこと、心配してると思うの。本当に…本当に…忘れちゃったの?」


「…ごめん」


 それは莉里に向けて呟いた言葉だった。


「どうして忘れちゃったの? あの日、何があったの?」


 いつもならそんなに首を突っ込まない則子さんが今日はかなり突っ込んできた。


「あの日は…」と言って、片手で顔を隠す。


 言うわけにはいかなかった。


「則子さんは…お姉さんと俺が特別に見えた?」


「…見えたわよ。お互いに…思い合ってて、大切にしてるのが…」


「だとしたら…それは許されないことだよね?」


 則子さんがはっとした顔をする。


「それに…緑ちゃんがお姉さんを刺したってことは…。一緒にはいられないんだと思うよ」とどこか他人事のように言わなければ、口の奥から何か出てきそうだった。


「律君…」


「…覚えてないけどね。まぁ、そうなるよね」


 好きだけで、一緒にいられたらどんなにいいだろう。


 もう何かを理解したのか、則子さんはその話はしなかった。


「俺は…とても元気だから。もしメールする時があれば、書いておいて。みんな元気でやってるって」


 もし叶うなら、お元気で、も付け足して欲しい。


 そして…忘れて欲しい、とも。


 本当はそんなこと思えないけど。


 味が薄くて、また塩を振った。

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