第54話

死にたい


 いつも夕方まで時間を潰して帰ってくる莉里が帰って来ない。気になって、時計を見る。六時を過ぎていた。大体五時には帰宅して、ご飯を作り始めるというのに。何の連絡もなくて不安になる。莉里と連絡がつかないと不安になる。俺はすぐにメッセージを送った。すぐに莉里から電話がかかってきた。ほっと一安心したのもつかの間、莉里の声は涙声だった。


「お母さんに…言っちゃった。律のこと、好きって。それで…泣かせてしまって」と言いながら、鼻をすすっている。




 俺はすぐに莉里と待ち合わせ場所を決めて、急いで向かった。


『莉里のことは忘れてくれる?』


 莉里の母に言われた言葉が蘇ってきた。


 彼女も俺が莉里を慕っていることに気が付いていた。俺は莉里の母には何だか申し訳ない気がしている。俺の母が莉里の父親、あの人を盗ったから―。


 だから莉里を忘れようと本当に思った。まさか莉里がフランスに来るとは思っていなかったから。


 それなのに約束を破ってしまった。




 莉里がふらふらと地下鉄の出口から出てきたのを見ると、駆け寄って抱きしめた。


「莉里、ごめん」


 青い顔をして「大丈夫だから」と言いながら、俺の胸を押して離れた。


 そして莉里は帰国の可能性について話した。もし莉里が帰国するなら、俺もそうしようと思った。もう一人にはさせたくない。莉里はきっとあの日からずっと一人だったんだと思う。


 いい時間だったのでブラッスリーで晩御飯を食べる。


 莉里は食欲がないのかチーズオムレツを頼んでいた。


 顔色が悪いけど、莉里は微笑かけてくれる。俺は莉里から選んでもらえない気がした。優しい莉里だから、きっと自分の母親を選ぶだろうと。


 俺が頼んだ鳥もも肉のローストが運ばれてくる。


「莉里、少し食べる?」


「え?」


「オムレツと交換して」


「うん」と笑顔を作ってくれる。


 少しカットして、フォークにさして、莉里の口元に運んだ。かわいい口が開いて、その中に鶏肉が入る。鶏肉が喉の奥に去って行った後、どんな言葉が出てくるのだろう。


 莉里はやっぱり母親の心配をした。一番辛いのは彼女だと言う。確かにそうだ。夫も子供も取られたと思うだろう。俺から見ても彼女は我慢をしていたと思う。それなのに…こんな仕打ちをしてしまった。俺は少し怖くて、俯いた。莉里の声が遠くに聞こえる。


「でも…私は律の側にいたいって思ってる」


 思わず顔を上げて俺は莉里を見た。


 莉里の目から一筋だけ涙が零れている。


「…ありがとう」


 どれほどの覚悟で言ってくれたか分かる。きっと莉里は今、自分を責めているだろう。


「莉里、絶対に幸せにするから」


 俺はその覚悟を持って、莉里を愛そうと思った。人を傷つけることが何より嫌いな人なのに。ナイフを心に持って、自分の心臓を刺している。


「一緒にいられるように私も頑張りたいから…」


 俺は手を伸ばして、莉里の頬の涙を指に移す。ブラッスリーに入って来る人が増えてきた。夜がすぐそこにある。





 ねぇ、莉里。


 俺たちはこうして出会って、血が繋がってて、それなのに愛しあってて。


 でもそれは別に俺たちがどうしようもないところでできてしまったことで。


 責任とか、社会的常識とか、信頼とか親を裏切るとか、全て乗り越えられないものばかりがあって。


 きっと莉里を苦しめてる。


 俺と会ったこと、後悔してる?


 正直、俺は生まれて来なければよかったなって思う事あるよ。


 俺が存在しているだけで傷つける人がいるから。


 でも、そんな俺でも莉里を愛して、受け入れられて、畏れ多くも生まれてきた喜びを感じた。


 本当はもう充分なんだ。それだけでもう。俺の生きた意味はそれ以上ない。自分が忌まわしい存在だって理解してるから。


「死にたい」


 そう思うこともある。


 でももしそうなったら、莉里にいろんなものを背負わすから。俺はしない。


 莉里の持っているもの少し分けて欲しい。


 だって、俺はもう何も守るものがないから。両手いてる。


 くだらない冗談だって言う。

 少しでも楽になるなら。

 ピアノなんか何回だって弾く。

 哀しさが癒されるのなら。

 君のためにできること、何でも。




 夜は二人の時間が濃く感じる。ベッドの中にいると世界は狭くて、二人しかいない気がした。


「律じゃなきゃ…死んじゃう」と俺の腕の中にいる莉里が言う。


「死なないよ」


 即答する俺に莉里が驚く。


「莉里も俺もずっと死なない」


 ――俺がずっと莉里を守るから。


 安心したように目を閉じる瞼にキスをする。


 ずっと俺の腕の中にいて。


 もし死ぬときが来るなら、一緒だったらいいのにな。


 莉里の手が引き寄せるように俺の首の後ろに回る。細い指を感じながら、また莉里の匂いに落ちていった。


 ――死にたい。今死んだら最高だ。

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