第53話

急所


 横向きに寝ている莉里を後ろから抱きしめる。朝になって、莉里が目を覚ましたから、左手を掴んだ。


「おはよう」と莉里が首を向けてくれる。


「おはよう」と言って、莉里の左手薬指にキスをする。


「あれ?」と莉里が初めてその時、気が付いた。


 昨日作っていた指輪が左手にある。スワロフスキーは少し歪んでしまっていたけれど、キラキラ光っている。


「…莉里。今日から奥さんだからね」と耳の側で言うと、赤くなって頷いた。


 でも奥さんでも姉でもそんなことはどうでもよかった。愛してる莉里が側にいるだけでよかった。いつかアルビンが言っていた。別に結婚しなくても、血縁関係なんだから…と。ビザに関しては難しいけど。


「律…」と言って、体ごとこっちを向く。


 俺は昨日、ピアノ練習をすると約束した指を莉里の唇につけた。


「練習、ちゃんとしたよ。うるさくなかった?」


「熟睡してた」と律儀に唇を外さずに話してくれる。


「よかった」


「あのね。律の指輪も…つけていい?」


 俺が頷くと、莉里はベッドを抜け出して、昨日買ったフリーサイズの指輪を取りに行く。莉里は裸でそのままだったから、俺は綺麗な後ろ姿を眺めた。そして戻ってくるときに、俺と視線があって、慌てたように胸を隠そうとする。


「見ないから」と割と隙間を開けて手で顔を覆うと莉里が走ってきて、ベッドの中に入った。


「もう。絶対…見てる」


「…まぁ、ごめん。でも…綺麗だから」と莉里を引き寄せた。


 莉里は指輪を俺の指にはめる。フリーサイズだから少し輪を大きくして嵌めた。そして莉里の左手と俺の左手を天井にかざす。安物の指輪が朝日に光っていた。


「莉里…。愛してる」


 陳腐なこの言葉以外に言うことはなかった。




 朝から練習をして、昼過ぎに不動産を紹介してくれる館林と会う事になっていた。莉里は事前にその時間を場所を被害者に教えている。館林が教えてくれるのはオペラ座からも近く、パッサージュからも近い高級なアパルトモンだった。


「いつかそんなところに住めたらいいね」と俺が言うと、莉里は「どこでもいい。ここも居心地いいし。律がいて、ピアノがああったら」と言ってくれた。


 莉里は朝市から帰ってきて、お昼の準備をしている。今作っているのはサーモンのクリーム煮らしい。少しずつ料理の腕が上がっている。


「フレンチってすっごく敷居が高いって思ってたけど…お家で作れるのは簡単で美味しい」と言いながら作っている。


「莉里は何を作ってもおいしい」と俺が言うと、少し恥ずかしそうに唇を尖らせた。


「あの時は中学生だったから」


「また、莉里のタコさんウィンナー食べたいな」


「えー。赤いウィンナーがないから無理だよ」


 そんなこと言いながら、昼食の準備を終えた。莉里に呼ばれて食卓に行くと、トマトサラダと、サーモンのクリーム煮とマッシュポテトが添えられていた。


「美味しそう」


「うん。美味しいと思う」と胸を張る莉里が可愛い。


「食べる前からおいしい」と言うと莉里が不思議そうな顔をする。


 そして期待通り美味しい昼食になった。デザートは大役が終わって、帰り道でクレープでも食べようということになった。


「莉里、手を繋ごう。夫婦だし」


「うん」


 手を繋いで俺たちは部屋を出た。




 待ち合わせはメトロのリシュリュー・ドゥルオ駅の出口を上がったところだった。俺はサングラスをかけて、身バレ防止に努める。莉里も伊達メガネをかけていた。風が強く、莉里の髪がふわっと浮き上がる。


「帽子被れば良かったかな」と言っている。


 莉里の髪を押さえようとした時、「長谷部ご夫妻ですか」と声をかけられた。


「そうです」と返事しながら、その声の主を見ると、これはもう返金は難しいんじゃないかと思うようないでたちだった。


 ダメージジーンズだか本気のダメージなのか膝が割れているし、持っている鞄がセカンドバッグで、皮がひび割れていた。本人の髪型も男性なのにおかっぱでしかもぺたりと顔にくっついている。こんな人が高級マンションのオーナーと知り合いというのが不思議だった。


「お二人とも…夫婦だから雰囲気がよく似てらっしゃいますね」


 そう言われて、どきっとした。


「良く言われます」と俺は適当に言って、莉里の手をぎゅっと握った。


「じゃあ、行きましょっか」とかなりカジュアルな言い方をされる。


 俺たちが若いからか、それともフランス生活が長いからなのか分からない。


「あー。えっと、ここからストップウォッチつかって、徒歩何分か調べていいですか?」と俺は時間稼ぎした。


 被害者と呼ばれる人の姿が見えなかったからだ。


「あぁ、良いですよ。まぁ…大体十分以内ですけどね」と言う。


 スマホの時計機能を立ち上げたものの、被害者が現れる気配がなかった。莉里と顔を見合わせるが、仕方なく館林の後についていく。


「ここら辺はパリの中心部なのに、静かでいいですよ」と話しながら歩いている。


「お仕事は…えっとエンジニアでしたっけ?」と言うから莉里を想わず見てしまった。


(エンジニアって何の仕事するんだ?)と思いながら「まぁ」と言ってお茶を濁す。


「あの…考えていたバスティーユの家賃より高いと厳しいんですけど」と莉里が話を変える。


「あぁ、まぁお高くなりますけどね。でも場所もいいですし、オーナーさんも素晴らしい人で…」と勧めてくる。


 オーナーは政府の機関で働いている日本人だと言う。ちょっとアフリカの方に長期出張があるから、ということらしい。


「長期って…どれくらいですか?」とまた莉里が話を繋げる。


「半年ですねぇ」


「半年…ですか。それはちょっと落ち着かないですね」と暗に契約が厳しいとほのめかしていた。


 何だかすごい精神戦になってきたな、と俺が思っていると、遠くから「ヒーツ」と呼ばれた。振り返るとチェロ科のピエールだった。無視して歩こうかと思ったが、仕方なく止まって手を振って、またね、という仕草を見せる。こんなところで知り合い似合うなんて、と驚いているとピエールがチェロがあるせいかこちらには向かってはこないが両手で手を振ってくれる。


「お知り合いですか?」


「あ。そうです。パリに来たら、チェロでも習ってみようかと思って。この間、体験しに行ったんです。顔を覚えていてくれて…」


「営業に必死ですね」と館林が苦笑いするから、どっちが、と思った。


 そんなこんなでついにアパルトモンに着いてしまった。内覧するつもりなかったけれど、行きがかり上、しなければいけなくなった。


 館林がドアの鍵を解除して開けて、中に入るように促そうと莉里の背中に軽く触れた瞬間、莉里の体がびくっと跳ねた。


「あ。ごめんなさい。驚いて」と言うけれど、莉里が我慢しているのが伝わる。


「…り…ほ…大丈夫?」


「うん。大丈夫。ごめんなさい」


「いいよ。謝らなくて」


 微妙な空気感になった時、後ろから


「舘林さん」とツインテールのロリータ服を着た女が声をかける。


 舘林が逃げようとしたから俺が長い脚を少しだけ前に出した。躓いて、転がる彼の頭にロリータブーツが乗った。


「内覧、私がさせてもらってもいい? もちろん前回の未払い分差し引いてね」


 床に転がる館林のセカンドバッグの皮がさらにはがれていた。


「お前たちグルだな」と館林が言って、起き上がるから、ロリータ―の子がふらついて、倒れた。


「うわ。逃げよう」と莉里の手を掴もうとしたら、莉里は両手を組んで、立ち上がりそうな館林の背中にその拳を下して、館林はそのまままた倒れ込む。


「え?」と俺は目を疑った。


「お話、ちゃんとしてください」と莉里が言いながら、ロリータの女の子を起こす。


「…すみません」とロリータの子はスカートをパタパタと両手で払った。


 アパルトモンの入り口でそんなことをしているから、人が集まり出すので、とりあえず話がでいるカフェに行くことになった。


 話し合って、お金を返してもらうとは言うものの、振り込みをしなければ意味がないし、本当に今はお金がないと言う。


 するとロリータ女子がSNSで館林がブランド品をアップしているのを画面を見せた。


「売ってお金を作るか、一つ譲るかで許してあげる」


 結局、ブランドバッグを譲ってくれるというので、館林の家まで行くことになった。


(早く帰れると思ったのに…。っていうか、莉里のさっきのあれ…何?)


 聞きたいけれど、聞けずに館林の部屋まで行った。もうすぐでパリ郊外というところの近代的なマンションだった。近代といっても日本と違って、フランスでは団地みたいな感じだ。パリ市内の建物が古すぎる。窓から見える風景は四角い建物が集まっていて見慣れない景色だった。


 こんなところで日本人相手に…と俺は不思議な気がした。館林の部屋の前で待つことになった。


「どうしてそこまでお金に執着するんですか? フランスまできて音楽するんだったら、お金に余裕あるでしょ?」


 ロリータ女子が言った。


「こっちはメイドカフェでお金貯めて留学してたんだよ」


 肩を竦めて、館林が部屋に入っていく。


「メイドカフェ?」と莉里が驚いているが、ロリータ女子がしてても違和感はなかった。


「あれ? ってか、園田さん」と俺を見て言った。


「あ…いや。園田ではないです」と変な断り方をした。


「え? ピアノの…」


「違います」


「でも」と食い下がるロリータ女子の袖を莉里が引っ張った。


 万が一、館林に偽名がばれても面倒だと思ったからだ。


 それでロリータ女子は黙って、館林が鞄を持ってくるのを待った。彼女は館林が持ってきた状態のいいブランドバッグを選んで満足げに「じゃあ」と館林に行った。扉が音を立てて閉められる。その音がコンクリートの建物に響いた。


 三人で駅まで向かう。


「でもそんなのもらうためにわざわざパリに来たの?」


「まぁ、これはついでで。ロリータ文化@パリっていうのを発信するために友達と来てて。バンドも組んでて、演奏させてもらうんです。モンマルトルのバーで。良かったら来てください。園田さんも」と最後はしっかり名前を言われた。


「…楽器は何してたの?」


「ピアノです。今はキーボードですけど。私は違う音楽院にいたんですけど、園田さんのことはよく知ってます」


「え? 何を?」と一瞬、汗が落ちそうになる。


「えっと、いろいろです。ピアノ上手いとか…後いろいろ」と笑う。


 ろくな噂じゃないな…と思ってそれ以上は突っ込まなかった。


「彼女さん? お綺麗ですね」


「あ…うん」


「それにお強いですし」と言って、小声で「園田さんは私を置いて、逃げようとしてましたよね?」と俺に言う。


 いや、仕方ないじゃん。ピアノしかしてこなかったし…と心の中で言い訳をした。


「とっさで…」と莉里が言う。


 咄嗟でそんなことができるって何者だ、と俺は莉里の顔を見る。


「則子さんと知り合いなの?」と俺は聞いた。


「日本での音楽高校での先輩なんです。私、先輩のピアノ好きだったなぁ」


「…それは俺も…」


 そんな話をしながら、ロリータ女子と別れた。疲労感が大波のように全身に覆いかぶさる。


「莉里…ものすごく甘いものを摂取したい」


「甘いもの? アンジェリーナのモンブランとか? 律は昨日あんまり寝てなかったし、こんなことになるなんて思ってもなくて疲れたよね」


「うん。一番驚いたのは…莉里の…あれだけど」


「あのね。私、ずっと小さい頃に護身術習ってたの。それ、どうしてかなって思ってたんだけど…。お父さんの知り合いのところに連れていかれて…」


「あ…。だからいじめっ子に箒で喉突いたり…」


「うん。力弱いから急所を教えてもらって。で、なるべく力のいらないところで…ダメージを大きく与えるって…教えてもらって」


(莉里、怖い怖い怖い)


「あ、やっつけるとかじゃなくて、逃げる時間を稼ぐだけだからね」


「…う…ん。あ、でも大丈夫? あいつに触られて」


「やっぱり…無理だった。律以外の人は…」と俺の方を見る。


「いいよ。無理に直さなくても」


 そう言って、莉里の手を取る。左手の指輪が見慣れなくて、でもずっとつけていて欲しいと思った。でも莉里を怒らせるようなことは決してしないことを同時に誓った。

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