第52話
天使じゃない
詐欺師に会う前日、素敵なことを思いつく。
「莉里。夫婦なんだからさ」
「え?」
目が大きく開く。
「結婚指輪しなきゃね」
「えー?」
驚いて、手で口を隠しているけど、目がきらきら輝いてる。
「買いに行こう」
「でも…お金…」
「いいよ。前、働いた分が入るから」と俺は笑った。
ごっこなのに本当に楽しい気持ちになる。正直詐欺師とかどうでもいい。莉里の手を引いて、ヴァンドーム広場に向かった。名だたる宝飾店が並ぶ場所だ。ウィンドウを
見て、莉里が顔をこわばらせる。
「律…。さすがに…やりすぎじゃない?」
「いいよ。別に」
生命保険のお金が入るから気が大きくなっているのだろうか、と一瞬思ったけれど、でも別に働いた分使うのだからいい、と思った。
「でも…別に…こんな高級のじゃなくて…いいから」
「莉里にプレゼントしたいから」
「え…でも一日だけのために…そんなの」
「別にその後も付けてくれたら嬉しいし…。っていうか、そういう夫婦ごっこしようよ。指輪を選ぶごっこ」と俺がむちゃくちゃなことを言ったけれど、相変わらず莉里は
騙されてくれる。
素直でかわいい莉里の手を引いて、お店の扉をあけようとすると、ドアマンが開けてくれた。
そして二人で何件か見てまわる。ものすごく幸せだった。試着もさせてもらう莉里の指が光って見える。
「あー、本当に綺麗」と俺は日本語で言って、ダイヤが三つ付いているのを選んだ。
小さなダイヤが三つ並んでて、シンプルで綺麗だった。莉里も試着だけと思っていたから、うっとり見ていた。
「じゃあ、これください」とすんなり口から出たから、莉里が驚いていた。
「サイズも丁度良さそうですね」と店員が言う。
「え? 律…」
「似合ってる。綺麗だよ」とにっこり笑って、店員さんに商品を渡す。
それでお会計しようとカードを出したら、莉里が横から取り上げた。
「あの、もう少し、考えます」と言って、俺の手を引いて出る。
「莉里?」
一流店で言い争いもできないので、そのまま手を引かれて出て行ったけど、ちょっと不服だ。
「似合ってたのに…」
「律、もっと、もっと、全部ダイヤのリングにして」
「え?」
「三つじゃなくて、全部。一周ダイヤの」
「…」
俺は莉里がそんなこと言うとは思ってなくて、言葉を失くす。一流店でそんなリングを買ったら確実に桁が変わってくる。俺は呆然としていると、莉里は笑い出した。
「それが買える時が来たら、買って」」
「え?」
「今はいい。針金巻いておこう」
「針金?」
「うん。針金にスワロフスキーつけて作るから」
「莉里…。そんなのできるの?」
「え? だって、針金丸めて、接着剤で着ければいいでしょ?」
(日本みたいに強力で瞬間で着く接着剤…あったかな)とぼんやり考える。そして俺は莉里を抱きしめた。
「一周ダイヤの指輪…買えなくてごめん」
「買えなくないよ。いつか、買える。きっと律がたくさんお金を稼ぐ日が来るから。その時を楽しみに待ってる」
普通に遠慮したら、きっと俺が無理にでも買うことを分かって莉里はそんなことを言う。
一流宝石店の前で男女が抱き合っていたら、それはもうプロポーズなのかと勘違いされる。
「でも…楽しかった。ありがとう」
一流宝石店で莉里と指輪を選んだのは確かに楽しかった。何も知らない周りの人達が温かい目で見てくれる。莉里は少し恥ずかしそうに笑って、手を繋いできた。何もない指だったけど、いつかダイヤ一周…。そんな日が来るのかな、と思った。莉里は…誰かと結婚するのだろうか。
結局、検索して、わざわざ針金で作らなくても、そういうパーツを売っているお店があって、莉里と俺はそこでなんの飾りのないフリーサイズの指輪を買った。そして莉里が言っていたように接着剤でスワロフスキーをつけるらしく、それも買っていた。さっきまでの購入店と全然違う値段だったけど、何だか莉里が嬉しそうなので、そっちの方が断然良かった。
唯一、不器用なのでうまく行くのか分からないという不安があったけれど、莉里が楽しそうに石の色を選んでいるから、余計なことは言わない。
夜、莉里が必死でスワロフスキーを指輪につけていたけど、上手く行かないようで、結局俺も手伝った。
「ごめんね。練習しなきゃいけないのに」
「いいよ。だってこうして二人で夫婦になるために作ってるのって、それもいいなぁって思って」
頬にキスをすると、すぐに赤くなる。
「…ありがとう。ねぇ、
「何かに挟んだら? スポンジとか」
「あー、賢い」と言って、俺に指輪をずっと持たせたまま、キッチンに向かう。
食器洗い用のスポンジにカッターで切れ目を入れて、そこに差し込んで固まるまで固定しておく。
「これで十分待ったら出来上がりだね」とスポンジに挟まれた指輪を見ながら莉里が嬉しそうに言うから、堪らなくなる。
「莉里…あの…ごめん」
「何?」と俺を見て言う。
莉里の髪を梳くってそこにキスをする。二、三日前も莉里が可愛くて頭を冷やすためにあれこれ買ったけど、結局、役に立たなくて、負担を強いた。
「あ…」と莉里が分かったようで、恥ずかしそうに俯いた。
「嫌?」
「…嫌じゃないけど…練習。今日は外に出てたから…」
「うん。そうなんだけど…。疲れてる?」
このまま練習しても絶対集中できない。いや、集中するためにするとかじゃないから。そうじゃない、と俺は頭の中で自問自答して、おかしくなりそうだった。
「ううん。でも…練習」
莉里は先生より厳しい。俺はため息をついて諦めようとしたら
「後で、練習してね」と指にキスをしてくれる。
キスされた指が約束を破る訳にはいかない。
莉里が腕の中で溶けていくのが堪らなくて、愛おしくなる。甘い吐息が熱を篭らせるから、何度となく抱いてしまった。夕方の光が薄明るい夜の入り口に変わっていった。行為が終わった後も離れられない。
「莉里…」と名前を呼びながらキスをする。
「律…。不思議。何で? 律だと…もっと触りたくなる」と言って、俺の髪に手を差し込んだ。
そう言えば一緒に日本でいた時も莉里は俺のことやたらと触りたがっていた。
「髪好きなの?」
「うん。ふわふわで、気持ちいい」
「ペットか何かと思ってる? そう言えば、一緒にいた時もやたらと…」
「だって、本当に可愛かったんだもん。一緒に寝た時も、可愛くて。律が寝た後…おでこにキスしちゃったの。気づいてた?」
「…ううん」
嘘をつく。莉里がなぜか唇をつけてくるのが不思議で、心地よくて、でも目を開けたり、そのことを聞いたりして、してくれなくなるのが嫌だった。黙って、柔らかい唇
がおでこにつけられて、そっと離れていくのを感じていた。
「律は本当に可愛くて、綺麗で…。私の天使みたいで…守ってあげたかった。だから悔しくて…律が一人追い出されるのが…辛くて」
そうやって、ぽつりぽつりと話して莉里は眠りについた。安心しきって眠っている顔を少し眺めて体を離す。
俺は天使になれているのだろうか。
莉里の寝顔に問いかける。
莉里には人生の選択がある。結婚して子どもを産むことだってできる。こんな不毛な弟といなくてもいい。テーブルの上のスポンジに指輪が挟まったままだ。触ってみると接着剤は硬化している。莉里の寝顔に口づけして、左手の薬指にその指輪を嵌めた。目が覚めたらきっと喜んでくれるだろう、と思いながら胸が苦しくなる。
――莉里を手放せなくなっている。
――俺は天使なんかじゃない。
莉里と約束した通りピアノを練習する。ここのアパートの人はピアノの音を喜んでくれているが限度というものがある。後一時間くらいだろうか。練習をしながら、莉里の心の傷が一緒治らなければいいと酷いことを考える。
莉里じゃないと駄目なのは俺で、俺の方が重症患者なのかもしれない。
夜が段々短くなってくる。
ビザの問題も近づいていた。
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