第51話

偽名



 俺と莉里はメールでアパートの部屋を見せてもらうアポイントを取る。相手の名前を聞いていた。館林という名前らしい。数件ですぐに館林という人とつながった。


「すぐ…だね」と莉里が驚いたように言う。


「お金…ないんじゃない?」


「…大丈夫かなぁ…」と不安そうに莉里は言う。


「いいよ。俺も行くから、アポイント取って」と言うと、莉里が「あ」と言った。


「どうかした?」


「このバスティーユの物件はもうないって…。でもその代わり、もっとラグジュアリーな物件があるって」と莉里がこっちを見る。


 いよいよお金がないようだ、と俺は肩を竦めた。


「律…。この人、お金ないとして…それで取り立てれるの?」


「さぁ。それは…俺の役割じゃないし…」


 こうして、フランスまで取り立てに来るっていうことは飛行機代、宿泊費もかかるし、そんなに旨味はない。それでも来るという執念の持ち主だから、お金というよりは文句でも言いたいのだろう。


「…それで今まで逃げ得してたのね」


「…そうだね。そうやって日々を暮らしてたんだろうね」


「律…。私…」


「ん?」とピアノの椅子から立ち上がると莉里がメールの返信をしていた。


「フランス留学ってもっとキラキラしてると思ってた。こんなこと…して…」


「こういう人は帰られないんだろうね。フランス語もできて、家主とか…そういう知人も多くて…。でも日本じゃまともな仕事できないから、ずっとこっちにいるんだと思う」


「…ビザはどうしてるんだろう?」


「さあね。莉里もする?」


「えー」と驚いた声を上げる。


「不法滞在だって結構多いと思うよ」


 莉里が目を丸くしてこっちを見た。


「あ、そうそうアポイントの名前、本名じゃ、駄目だよ」


「あ、そっか」


「せっかく捨てアド取ったのに」と俺は言う。


「じゃあ、どんな名前がいい?」


「何でもいいけど」と言って、俺たちは新しい名前を考えるのにしばらく悩ませながらも楽しかった。


 そして夫婦という設定で部屋を借りたいと言うことにした。


「莉里、夫婦だって」と返事を書いている莉里を後ろから抱きしめると、莉里の耳が赤くなる。


「…うん」


 莉里の耳にキスをしながら「奥さん」と言う。


 莉里の手がキーボードから離れて、耳を押さえる。


「もう。邪魔しないで」と怒った。


 俺たちの名前は長谷部凛太朗はせべりんたろう長谷部里穂はせべりほに決まった。同じ「り」で始まる名前にしたのはうっかり出た時のための対策だ。長谷部は中学校の担任の名前だ。




 しばらく夫婦ごっこして楽しめるな、とにんまりしながら、莉里のビザ問題を考える。莉里が出かけている間に俺は日本に電話した。でもあの人のところじゃない。母親の実家だ。


「お久しぶりです」と言うと、祖母が出た。


「どうしたの? 元気にしてるの?」


「はい。おかげ様で」


 俺は俺の母親の生命保険について聞いた。そのお金は俺のためにとってくれているはずだった。


「お金、足りないの? 大丈夫?」と心配された。


「ううん。心配しないで。ちょっと…そこから使えないかなって」


「…仕送りないの? もういい大人だもんねぇ」と祖母が言う。


「ううん。仕送りは今もしてくれてる。ビザ更新に必要で」と俺はうまい具合に隠して言う。


「ビザ?」


「口座にある程度の残高があるといいんだけど…。別に使わないんだけど、一応口座に入れておいてもらったら助かるなって」


「…分かった。いくらくらい?」


「二百…。いいかな?」


「いいよ。…でも無理せんとかえってきたらいいよ。あの時は…ごめんね。今はもう仕事も終わって」


 祖父も祖母も大学で働いていた。研究もあって、忙しかった。引き取ってもらえないのは少し悲しかった。でも実の娘を亡くしてそれどころじゃなかったのかもしれない。


「ううん。ありがとう。感謝してる」


 あの時、手を離してくれたから、莉里と会えた。


 このお金は莉里の学費に使おうと考えている。そしたらまた一年、莉里はフランスにいられる。でも言うときっと反対するから、こっそり払うことにしよう。


 母親が亡くなって、降りた生命保険は全て俺に使っていいと言われていた。困った時に使えばいい、と。


「死んでくれて…ありがとう」と呟いたら、初めて涙が零れた。


 ずっと苦しかった。小さい頃はこっちを向いて欲しかった。亡くなってからは、少し憎んだ。そしてもう随分、無関心になれたと思っていたけど、今更どうして涙が零れることが不思議だった。この涙の理由も分からない。


 莉里を愛してる。


 そんなこと、もし母親が生きて知ったらどうしただろう。


 好きな人とその奥さんの子どもを好きになったって言ったら、どんな顔しただろう。怒り狂って半狂乱になっただろうか。そして俺は何て説明することになったんだろう。


 何一つ思い浮かばない。でも発端を作って、勝手に死んでいった母親だから。俺が悩むこと一つ減った。

 

 ――死んでくれて、ありがとう。


 死んでるから言える。


「莉里を大切にするから。誰よりも」


 困った顔を見ることもなく言えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る