第50話

頭を冷やす


 ――最悪。


 その評価のおかげなのか、何なのか、夏にニューヨークで開かれるコンサートに代理で出ることになった。どれくらい最悪か聞いてみたい、と言われたらしい。多分、ジョークだと思う。そう思いたい。


 俺は莉里に早く知らせたくて、急いで家に戻った。アパルトモンの廊下も走る。


「莉里」と部屋に飛び込むと、莉里は窓から体を離したところだった。


「おかえり」も「どうしたの」にも応えずにそのまま抱き上げてしまう。


 理由を口早に言ってキスをする。


 幸せだった。幸せ過ぎて、莉里が抱えている問題のことをちゃんと考えていなかった。莉里はもうすぐ切れるビザのことを悩んでいた。ビザ延長にはもう一年の学費が必要だった。あの人に相談するしかないと言っていたが、それを承諾することは難しいと思えた。



 莉里がいないなんて考えたくなくて、莉里が帰国するなら、一緒に帰国してもいいかな、と考える。でも莉里はそれを認めてはくれなかった。


「大丈夫。私も何とかしようと頑張るから」と笑顔を見せた。


 ――莉里。どうしようもならないことがある。


 あの人は絶対に認めない。


 そして俺も莉里も…ここで暮らすにはあの人のお金が必要だ。


 ピアノなんて弾いてる場合じゃないかもしれない。何とか働いて…。いや、問題は莉里のビザだ。俺はアーティストビザが発給されているから、このまま住むことができる。莉里は…学生ビザだ。もし恋人だったら、結婚して配偶者ビザに切り替えられるが、姉弟は配偶者にはならない。


「莉里…」


 細い髪に指を通す。


「とにかく、電話しなきゃね」と不安な気持ちを隠すような笑顔で言った。


「…帰国も考えていいから。俺も…別に。日本でピアノの先生してもいいし、ホテルで弾いてもいい」


 そう言うと、莉里は本気で怒った。


「一緒にいたいから…」と言うと、困ったように笑う。


 莉里は真剣に悩んでいるのに、俺は抱きしめたくて仕方がなくなる。


「莉里」


「何?」


「アイス、アイス買ってくる」


「え? なんでアイス? 食べたいの?」


「うん。莉里も食べたい?」


「あ…うん?」


 また飛んで入った扉を飛び出していく。俺はスーパーに行って、アイスをカゴに入れる。なんか頭を冷やすもの、冷やすもの、とレモンとミネラルウォーターガス入りもカゴに入れる。ついでにハムもカゴに入れる。莉里が飲むワインも入れる。それから冷凍食品のラザニアも放り込む。トマトとモッツァレラチーズも入れる。本当は莉里もカゴに入ってくれたらいいのに。そんなくだらない妄想をしながらレジに並ぶ。フランスのレジはのんびりだから、莉里が悩んでいるビザ問題についてたっぷり考えることができる。


 ビザがなくたって、日本人は三か月は滞在できるから、他所の国に行って帰ってきたらいい。夏にアメリカに行くから、一緒に行って、とりあえず三か月は伸びる。

 その先は…もしかしたら、またアメリカに呼んでもらえるかもしれない。それは全て俺の腕にかかってる。ピアノ弾こう。


「ボンジュ―」とレジの人と挨拶をする。


「今日は珍しくたくさん買うのね」と言われた。


 いつも大したものを買わないのだ。


「仕事増やしてごめんね」と言うと、真顔で頷いてため息を吐いた後、笑ってくれた。


 今日は俺がご飯を準備しよう。ハムはそのまま出せばいいし、トマトはカットして、チーズをのせて塩胡椒とオリーブオイルかければいいし、ラザニアは温めるだけでいい。


 支払いを済ませると、袋詰めを慌ててする。すると横からすっと手が出て俺の商品を取り上げる。その手の持ち主は莉里だった。


「莉里…」


「なんか飛び出して行ったから」


「うん。ちょっと頭冷やそうと思って」


「アイス食べたかったのはそれ?」


「そう。アメリカ公演が嬉しいのと…後、莉里が可愛くて、どうしようもなくて」


「え? 私、なんかした?」


「何もしてなくても可愛い」


 そう言うと、顔を赤くして袋詰めを急いでする。


「パン買うの忘れた」と俺が言うと「寄って帰ろう」と莉里が微笑む。


 そう言ってると電話がかかってきた。則子さんだったから、莉里に出てもらって、俺が荷物を運ぶ。


「あ、すみません。私…。あ、今、律が荷物を持ってて、電話が受けられないから要件を聞いてって」と莉里が生真面目に説明する。


 俺は荷物を持ちながらパン屋に並ぶ。横で莉里が驚いたような顔で相槌を打っている。


「聞いてみますね。はい」と言って、電話を切った。



 パンを買って、話しを聞いてみる。


 仕事の話かな、と思っていたら、全然違っていた。不動産詐欺の話だった。パリの住宅事情は本当に厳しい。普通の部屋でも探すのは困難というのに、楽器を弾くとなるとさらにハードルが上がる。だから普通の不動産屋さんで紹介してもらえないことも多い。潜りの紹介者というのがパリにはいる。完全に詐欺とは言えないのかもしれない。いい物件を持っていることもある。ただ保証金を返さないことも多いようだ。音楽学校を終了して帰国する時期が留学生同士被るから、返される人もいれば、返されない人もいる。でも帰国が迫っているから、その間、他所の国に行ったりと逃げ切っているらしい。


「で?」


「それで、私か、律に部屋探しをして欲しいって。その人に繋がったら、連絡して欲しいって」


「何、それ? 莉里が部屋探しするって…」


「だから、本当に部屋を探すんじゃなくて、フリで探して、その人とつながって欲しいんだって。則子さんの後輩…去年帰国したんだけど、お金を取り返すためにくるみたい」


「莉里…。危なくない?」


「うーん。でも私はアポイント取るだけだから」


「じゃあ、一緒に行くから」


 二人で部屋を借ります、ということで探すことにした。

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