第49話
コンチェルト
コンチェルトはリハーサルから大変だった。指揮者が目の敵のようにあれこれ言ってきて、ついにはオケにまで当たる。これでよく仕事が来るな、と思ってため息をこっそりつく。休憩時に五十代頃のコンサートマスターに「上手くやってよ」と言われた。
笑顔で「クソが」と日本語で言う。
こういう時にマイノリティー言語でよかったと思う。相手が不思議そうな顔をするので「OK」と言い直した。
休憩中だけど、俺は出だしを練習する。水雫が落ちるように、指を鍵盤に落とす。音がピアノからはじけ飛ぶ。垂直に力が鍵盤に落ちるように、脱力して、腕の重みが重力で落ちるように、何度も繰り返した。ずっと最初の音だけ狂うように弾き続ける。音が研ぎ澄まされる気がした時、パンと柏手を打つ音がした。
顔を上げると指揮者がいた。集中力がぶった切られた。
「君のそれ、何?」
「え?」
「嫌味なくらい練習するの、何?」
「何って…お気に召さないようだったので」
「それね。君、何言っても調整してくるの止めてくれない?」
「はあ…」とわざと大げさにため息を吐いた。
「巨匠の僕と無名の君が張り合えるわけないでしょ?」
何が言いたいのか分からなくて、俺は首を傾げた。
「だーかーらー。下手でいいから」
下手と言われてむっとしてしまう。
「下手でいいから、君がしたいように弾きなよ。それくらい合わせられるから」
駄目出ししてるのはあんただろう、という言葉は飲み込んだ。
「いい演奏しようと思わなくていいよ。新人だもん。それより新人って、どんな演奏してくれるのか楽しみじゃないか。僕はそれを上手く魅せるのがお仕事なんだよ」
初めて演奏が何か教えられた気がする。
「まぁ、もちろん僕のアドバイスは間違いではないけどね。もっと気楽にやりなよ」と笑われた。
ピアノが弾ける。それが人より少し上手かっただけ。人より練習しなければいけなかっただけ。留学も…行かされただけ。ただ努力はしていた。目的はなかった。あるとすれば、莉里が喜んでくれたから。
でも最近、メアリーと一緒に演奏したりして、俺は音楽に対して少し違う見え方ができそうだった。
――莉里のために弾く。彼女を思って演奏する。それはそうだ。
でも俺自身が楽しめないと演奏も意味がない。
(莉里…。ラフマニノフ…聞いたことないだろうけど…。寝ないで欲しい。素敵な曲だから)
少し力が抜けた。
全くの素人の莉里にその魅力が伝えられるように演奏しよう。そう思うと、心がくすぐられるように軽くなった。
それでもまた俺は出だしの音の透明感を探った。
休憩後のリハは驚くほどスムーズで、コンマスも驚いていた。指揮者が指揮台から降りて
「本番、よろしくー」と軽く手を挙げた。
そしてピアノの俺の横を通り過ぎるときに「あー、メアリーちゃんとがよかった」と不貞腐れて言う。
俺が肩を竦めようとした時、
「でもまぁ…メアリーちゃんが最高って言うだけあった」と振り返って言うと、舞台袖に消えて行った。
コンチェルト本番前に莉里が楽屋に顔を出してくれる。
「律…。お腹空いたら、これ食べて」と言って、バナナとサンドイッチを持ってきてくれた。
ミントグリーンのAラインのワンピースを着ている。
(かわいい)と思ってしまう。
「ありがとう」
「頑張ってね」と言ってくれるから、思わず抱きしめたくなる。
そこに指揮者が通りがかる。
「え? 律の彼女?」と言って立ち止まって、莉里を眺める。
「あ…」と莉里が困ったような顔をするので、間に入った。
「大切な人です」
「そっかぁ…。そっか、そっか。メアリー…。それは仕方ないなぁ」と小さく呟いて頷く。
どういう事かわざと聞き返さなかった。指揮者はそれ以上、何も言わずに去って行く。
「コンチェルトって…難しそうだけど、頑張ってね」
「うん。莉里がこの曲を好きになってくれるように頑張るから」
莉里は客席に戻ると言う。則子さんが一緒に来てくれているらしい。その後ろ姿を眺める。幸せな気持ちで舞台に立てた。
舞台は成功だった。何度もアンコールに呼び出されて、俺はまた悲愴の二楽章を演奏した。莉里のために。莉里はラフマニノフも好きになってくれたかな。
演奏が終わるとたくさんの人が詰めかけてきた。巨匠と新人ピアニストだったから、興味を持たれたようだった。俺はいち早く莉里に会いたいと思っていたが、新聞記者も来ていて、そうもいかないようだ。
「巨匠とのコンチェルトどうでしたか?」
――いい経験をさせていただきました。
「出来栄えはどうですか?」
――満足です。
「好きな曲は?」
――それは…悲愴の二楽章です。
「アンコールに弾かれた曲ですよね?」
――はい。
「特に思い入れは?」
答えようとした時、指揮者が出て行くというので、みんなそっちの方へ流れていった。今の内だと急いで着替えて、楽屋から出て行った。
莉里と則子さんがホールで待っていてくれた。
「おめでとう。初のコンチェルト。すごくよかったよ」と則子さんが小さな花束をくれる。
「ありがとう。莉里は寝てない?」
「寝てないよ。律の時はいつも起きてる」と少し膨れて言う。
膨れた頬を指で押したい衝動を必死で抑える。則子さんがいるから我慢した。
「それでよかった?」
「うん。とっても。なんか…えっと。壮大で」
俺はその簡単で素直な感想が大好きだった。
「キラキラした音出してたよ」と則子さんに言われた。
「あー、それはもうできてるはずだよ。あの頃と違って」
「そうね」と則子さんが笑う。
莉里は不思議そうな顔で俺たちを見た。
「何か食べて帰る?」と則子さんが言うから、
「いいね」と俺は返事した。
翌朝、俺のインタビュー三行と、巨匠のインタビューが長々と乗っていた。俺については
「最悪。でも将来性はある」とだけ言っていた。
(最悪って…なんだ)と新聞を両手に持って引っ張ったから裂けてしまった。
裂けた間から、お花の水を入れ替えている莉里が見えた。窓の光がその姿を白く光らせる。妖精。きっと莉里は花の精なんだ、と馬鹿なことを考えて幸せになる。花の精が微笑んでくれたから、俺は最悪でも何でもいいと思えた。
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