第48話
傷も痛みも
何度も莉里と呼びかけても、莉里はぼんやりと涙を流しているだけだった。じんわりとシャツが温かく濡れて、冷えていった。手を繋いでいる指先も動かない。
『特に…律には…知られたくないことだと思うから』とあの人は言った。
それなのに俺は莉里から言わせてしまった。
「莉里…。愛してる」
陳腐な言葉しか言えない。
「莉里の全てを愛してる」
莉里の傷も痛みも全て愛してるって言いたかった。
「ごめんなさい。…黙ってて…。ごめんなさい」と莉里が突然繰り返した。
「ううん。そんなこと…ない。莉里が謝ること何一つないから」
「私、自分が嫌い」
そう言って、また泣き出す。
「でも俺は好きだから」
莉里が首を横に何度も振る。つないだ手を離して、莉里を抱きしめた。もうどうしようもなかった。
「ねぇ、聞いて。辛かったのすごく分かるから。もう二度とそんなことにならないように、俺が守るから。側にいるから」
こんなに苦しんでいたのに、誰にも言わなかった莉里を俺が救わなくて、誰が助けるんだ、と思った。いつかくる別れを考えていたけれど、俺はやっぱり莉里を他の誰かに渡すことはできないと思った。
「莉里が嫌だって言っても、側にいるから」
莉里の髪に唇を当てながら言った。柔らかくて艶のある髪に何度も言う。
「律…。私…」
「病院に行きたかったら、付き添う。アルビンにいい病院を教えてもらう」
「律と一緒にいていいのか…分からない」
「いいよ。ううん。莉里がいないと俺が駄目になる」
もう莉里が薄く溶けそうだった。
「でも…」
「莉里、温かいお茶を入れる。一緒に飲もう。クッキー残ってたよ。ソファに座ってて」
俺は莉里をソファに座らせて、温かいミルクティを作る。ロンドンで買ったバタークッキーをお皿に出した。
「聞いてくれる? 莉里のためだけの…リサイタルをするから」
ぼんやりとしている莉里に温かいカップを持たせる。口をつけようが、つけまいが温かさが伝わればいいな、と思った。
俺はバッハのプレリュードを弾いた。アベマリアの伴奏になっている曲だ。神様に祈りたかった。
――どうか莉里の傷が癒えますように。
そのためなら、俺はなんだってする。何をしてもいい。ピアノを辞めたってかまわない。
莉里のために必死でピアノを弾き続ける。もちろん悲愴も全楽章、弾いた。莉里が知ってそうな有名な曲を延々と弾き続けた。
「律…」
莉里の方を見ると、紅茶のカップを手に挟んだまま「ありがとう」と言って、涙を零した。俺は椅子から立ち上がり、莉里の手をカップごと包み込む。
「愛してる」
カップはすっかり冷めていた。
「ねぇ、覚えてて。今からずっと莉里のためにピアノ弾くから」
「え?」
「今日以降は、全て莉里のために弾くから」
俺のできることはピアノを弾くしかできないから。
そう言うと、莉里は「そんなこと、誰にもできないよ」と微笑んでくれた。
アルビンに教えてもらった病院に通院し、莉里は痛みと向き合っている。そんな彼女を見ると、俺は何があっても莉里を守る覚悟を決めた。
「律…。私ね、別に他の男の人と触れ合えなくてもいいの。そんなの一生治らなくてもいい」と莉里は言う。
あの人に別れなさいと言われるだろうけれど、俺はもう揺るがない。
莉里が長い髪をポニーテールにしている。
「ご飯、何しよっか」と振り向いて、微笑んでくれる。
それだけで、それ以上、何も欲しいものはなくて、俺も微笑み返した。寒さが和らぎ、春が近い。淡い空はいつも不安な気持ちにさせられる。
でも俺はもう人の道を外れたと言われようが、莉里から離れない。
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