第47話
冷たい指先
ロンドンから帰るとすぐに、コンチェルトに向けて、練習を繰り返す日々だった。莉里は学校がお休みらしく、よく美術館に出かけていた。そんなに絵が好きな様子もなかったし、詳しそうにも見えなかった。でも出かけていたのは俺のせいかもしれない。莉里がいるとピアノに集中できないと思われているみたいだった。
失敬な。そんなことはない。
ちゃんとピアノを弾いて、莉里に話しかけて、ピアノを弾いて、莉里にキスして、ピアノを弾いて、莉里を…。
(間違いない。効率は良くない)
でも莉里がいてくれるから、俺は頑張れる。莉里が遠慮して出かけるのはかわいそうなので、寝室にでも閉じこもってもらおうかと思った。
(寝室に…閉じこもる?)
余計、よろしくない、と俺は頭を振った。
「今日はどうにもだめだ」とピアノの蓋を閉めて、気分転換にスーパーにでも行こうと思った。
扉を開けた時、大きな白人男性が立っていた。
「え?」と思わず口から声が出た。
「リリィは…いますか?」
「莉里?」
「リリィの部屋だったと…私…アルビンの生徒でヘンミンキです」
「莉里に何か?」
「あ、いえ。あの…日本語を教えてもらおうかと…」と大きな体を少し縮めて言う。
「…莉里は今出かけてて…。アルバイトも始めてて…最近は忙しくしてます」
実際、莉里は日本人の駐在員の家庭の子どものお世話のアルバイトをしている。二人ともフランスで働いていて学校の送り迎えや、宿題を見るまで手が回らないらしい。それで週に二日ほど、莉里がお手伝いに行っている。まぁ、そうは言え、その子たちも今は冬休みなので日本に帰国していてアルバイトはない。
「そうですか…」と残念そうに言う。
本当言うと、週に一度くらいはきっと日本語を教えることができるだろうけど、そんなこと、俺が嫌だった。俺は無下に断ってしまったけど、莉里がいないときで良かったと思った。莉里は優しいから流されてしまう。
「じゃあ、これ、リリィに。フィンランドの靴下です」と言って、紙袋を渡してくれる。
「…渡しておきます。ありがとうございます」
そう言って、ヘンミンキは去っていった。俺はもらった袋を一度家に持ち帰ってテーブルに置いた。
莉里が他の誰かを好きになるかもしれない。そんな機会を潰してしまった。離れなければいけないと思っているくせに、できない自分がいる。
莉里の心の傷を癒すまでと言うのも、自分にとっての都合のいい解釈だ。傷が一生治らなければいい、とどこかで思っている。だから莉里の過去の蓋を開けることもできない。矛盾した思いを都合のいい言い訳でごまかしている。
ため息を吐いた時、莉里がパンを抱えて戻ってきた。
「あれ? 律…。練習は?」
「あ、ちょっとスーパーに行こうと思って…」
「行かなかったの?」
「あ、うん。あの…これ」と紙袋を渡す。
「何?」と笑顔で袋を受け取って、中身を出した。
かわいい柄の靴下だった。
「なんか…へん…あ、ちょっと名前、忘れた。彼が莉里から日本語を習いたいって、それを持って来たんだ。なんか…信用できなくて断ってしまったけど…」
「ヘン? 日本語? もしかして大きい人?」
「あ、そうだね。大きかった」
「アルビンの生徒さんよ。マシューを預ける時に受け取りに来た人なの。日本の漫画が大好きって言ってて…」
「そっか。知り合いだったんだ」
俺はそんなこと知らなかった。
「…もしかして余計な事した?」
「え? 余計?」
「勝手に断ったこと。もしかして…莉里にとって、大切な友達…っていうか、それ以上になるかもしれないし…」と俺は言った。
ここで莉里にはっきり否定してもらいたかっただけだった。
「…それはないから。私…」
その後、莉里は俺が想像もつかないことを言った。
莉里は事件のことを数年前に思い出していた。
大学の時、先輩と二、三回デートしたものの、上手く行かなかった。いい人だったから、デートの誘いを受けて、水族館に行った。その時、手を繋がれて、それが気持ち悪く感じて違和感を覚える。最終的にキスされたのも耐えられなかった。
それが自分がどこかおかしいんじゃないかって思い、原因を探そうとした。特に何も思い当たることがなかった。
ある日、小さい頃に性的被害を受けた人が当時よく分からなかったけれど、それがトラウマとなって男性と上手く付き合えないという情報をネットで見た。
自分は当てはまらないと思っていたが、その日、ふと思い出す。
覆いかぶさる男の人、草の匂い、背中に石が当たった痛み、舌が這う首筋、声が出ないほど怖かったことを。
「だから…男の人…苦手なの」と莉里は言う。
「莉里…」
「律も男の人なのに、律だけは不思議だけど…平気で」
莉里の目から涙が溢れた。
「ごめんね」と何故か泣きながら謝る。
俺は抱きしめながら「謝らなくていい」と言った。
「ごめん、ごめんなさい」
繰り返し謝る。小さく震えながら、俺の胸に頭を擦りつけた。
なんだろう。
小さい莉里が叫んでいるような気がした。
「ごめんなさい」
「莉里…」
俺の声は少しも届かない。
「いや、いや、いや」
「莉里…」
背中を撫でていいものか躊躇するから、俺は莉里の手を握って言う。
「辛かったね。でももう過去だから。莉里は…今、安全な場所にいるから」
動きが止まった。
「大丈夫。もう大丈夫」
指先が冷たい。
「…俺が莉里の安全な場所になるから」
声を上げずに涙を零す。俺のシャツが温かく湿った。
「ごめんね。莉里が…辛い事知らなくて」
莉里はもうすでに思い出していた。そして自分でその記憶に折り合いをつけていたのだろう。でもその折り合いが、本当はちゃんとついてなかった。一人でどうやってその恐怖に対処していたのか、俺は想像するだけで胸がちぎれそうだった。フランスに来たのもそう言うものから逃れたっかったからかもしれない。
「…律にしか…触られたくない」
そう言った莉里の声はまるで機械のようだった。指先は相変わらず冷えたままだった。
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