第46話

自覚


 本番もメアリーの音が美しかったし、響きも良くて、俺もいい音楽が作ろうとした。高い天井に音が上ぼって混ざる。メアリーとは音のやり取りが確実にできる。


 一瞬見る彼女の背中は凛としていて、神様に愛されたバイオリニストと言われているけれど、何より彼女が真摯に音を紡いでいるのが分かる。


 メアリーに


「リツと音楽を作りたい」と言われて、一瞬、ドキッとした。


 愛の告白をされるよりも息が止まって、胸が詰まった。


 本当に音楽が合うと心地いい。だからメアリーがそう言ってくれて嬉しかった。二人で一つの音楽を作る。それが素敵な音になるようにお互いをぶつけたり、受け入れたりする。演奏しながらわくわくする。


 その相手がメアリーだったから最高だった。気持ちが高揚して、初めてピアノを弾いていて良かったと思えた瞬間だったかもしれない。



 幼い頃は母にこっちを向いて欲しくて、ただ母親の気を惹くためだけに弾いていた。そして母親が亡くなった時は、もうそれ以外することがなかった。特に運動ができるわけでもなく、勉強も普通にしかできない。ピアノが人より弾けたから弾いていたというだけで、そこに喜びはなかった。


 莉里がうっとりピアノを聴いてくれるまでは、義務のような気持ちで弾いていた。


「りっちゃん、すごい」


 そう言ってくれた少女の笑顔が嬉しくて、何度も弾いた。


 だからと言ってピアノが楽しいとか、好きだという気持ちはなくて、役に立って良かったくらいだった。



 今、メアリーと弾いていて、音楽が好きで、ピアノが好きで、楽しいという気持ちを初めて知った。


 演奏後の拍手も響く。メアリーと俺は何度も挨拶をした。そして一人だけピアノの前に戻り、そのまま座ってピアノを弾く。ピアノを好きだと自覚して初めて、莉里のために、莉里の好きな悲壮、二楽章を弾く。


 莉里は何でも俺に惜しげなくくれる。


 俺が莉里にできることはピアノを弾くことだけ。もしそれで莉里の傷が癒えるのなら、専属のピアニストになったっていい。


 痛みが薄くなりますように。


 そしていつか消えますように。


 そして苦しみから解放されて、いつか…俺と離れて幸せに…。


 最後の一音が終わっても周りは静寂だった。


 一瞬、余計な事をしたかと思ったら、拍手が一斉に起こった。俺は立ち上がって、おじぎをした。会場内の莉里を探す。でも見つからなかった。



 外で待っていてくれた莉里の姿が見えた。駆け寄ろうとしたら、いろんな人に話しかけけられる。そしてその間にメアリーが来て、頬を合わせて、風のように去っていく。


「やっぱり素敵だった。またね」と言葉を残して。


 莉里を見ると、少し俯いている。


 何とか周りをやり過ごして、俺は走って莉里の側に行った。


「嫉妬するぐらい素敵だった」


 珍しく莉里がそんなことを言った。だからもう誰とも共演しないと言うと、怒られた。莉里はいつでも俺のことを一番に考えてくれている。




 ホテルで莉里がくれたプレゼントを開ける。サファイアブルーのカシミアのマフラーだった。


 莉里が優しく巻いてくれて


「やっぱりよく似合う」と言った。


 俺は小さなダイアが花のモチーフになったネックレスをプレゼントした。


「つけてあげる」と言って、莉里の後ろに立つ。


 柔らかな髪をかき上げて待つ莉里の白いうなじが綺麗だったから、緊張して指が震える。それでもなんとかつける。


「似合う?」


「うん。綺麗だ。鏡で見る?」


 俺は莉里を洗面台まで手を取って連れて行く。


「律、ありがとう。すごく綺麗」


「莉里が綺麗」と横顔にキスをした。


「ケーキ食べよう」と照れた莉里が言う。


「そうしよう」と俺は笑った。




 雪が降り続く中で、莉里を抱く。莉里が珍しく「愛してる」と繰り返してくれる。だから不安になる。


「俺の方が…」


(ずっと愛してる)


 莉里の唇が微かに震えているのを確かめるようにキスをして


「愛してる」と俺も繰り返した。


 莉里の目から零れた涙が一体、なんだろうと思って、指で払う。


「莉里…辛い?」


「ううん。そうじゃないの。今…幸せで…」


「怖い?」


 俺は莉里がいつか俺の前からいなくなることを知ってる。このまま一緒にずっとなんていられないことも分かってる。あの人が言うように、いつかは変わってしまう。でもせめて莉里の傷が癒えるまでは側にいたい。


「律が…成功すること…祈ってる」


「莉里…どんなことになっても離れない」


(そう言ったら安心してくれる? それとも信じられない?)


「私、足枷になってない?」


「なってないよ。…そんなこと思ってたんだ」


「…じゃあ、良かった。律は…私のこと心配してくれるから。だから…」


「心配するのは愛してるから」と言って、キスをする。


「律じゃないと…私…」


 珍しくそんなこと言うから、俺は抱きしめた。


「俺も。莉里がいい。いい?」


 我慢できなくて、また莉里の中に入る。考えたって仕方がない。莉里の小さく息を飲む音、目が潤むところ、何もかもが好きだ。莉里の前髪を手で上げると、莉里が恥ずかしそうにするけど、今夜は莉里が手を俺の肩から二の腕に滑らせてくる。小さな手が二の腕を握る。


「律が…欲しい」

 

 そんな直接的な事言われて、頭がおかしくなりそうだった。この瞬間がずっと続けばいいのに。

 莉里の吐息が甘くて、めまいがする。

 正気を保てそうにない。


 雪がカーテンとなって外界と遮断してくれる。日本と違って、すごく静かなクリスマスイブの夜だった。

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