第45話
神聖な音
莉里がホテルで待っていてくれるとメッセージをくれたから、リハーサルも調子が良かった。メアリーがため息を吐くほど、俺は浮かれていたらしい。
「もう、リツ。ちょっと早い」
「あ、ごめん」
早く帰りたいのが出てしまった。反省。出かけるときに、フロントに花束を部屋に用意してもらったから、きっと莉里は喜んでいるんだろうな、と思わず微笑んでしまう。
「まじめにやらないと、何時間でもやるわよ」とメアリーがこっちを睨んでいた。
「それは困る」
「でもいいわね。他人でそこまで変われるなんて」
「メアリーは恋してないの?」
「恋って、それがよく分かんないのよ。そもそも好きになるってのが分からない。まぁ、リツは好きになっちゃうかもしれないけどねぇ」とブリティッシュジョークを言う。
「音楽解釈は合うよ」
「そう。最高だから。スペインで一目ぼれしちゃったぁ」
メアリーはそう言って、俺の方を見た。
「俺は…羨ましいって思ってたけど…」
「私が?」
「うん。小さい頃から活躍して、でも今でも続けてて…バイオリンに愛情が持てて」
「リツはピアノに愛情はないの?」
「…愛情。…分からないな。弾くしかなかったから」
「私は母がピアノの先生してて、小さい頃から音楽がそばにあって。演奏家の伝手もあったし、それに…まぁ、私に才能があったからだけど」とこともなげに言う。
でもそう言って良かったほどにメアリーは練習もしているだろうし、バイオリンに愛情を持っているのが分かる。
「俺もそんな風に弾けたらいいなって。いつかそうできる日が来たらいいなって思ってるから」
メアリーが驚いた顔でこっちを見て言った。
「でも…続けてるってことは…好きなんじゃない?」
「…そうかもね」
俺はまだメアリーみたいに心から音楽に没頭しているわけじゃなかった。でもいつかそうできたらいいと思った。
ホテルに着くと部屋に莉里がいなかった。
「え…。待ってるって言ってたのに…」
部屋に置かれた花束もクッキーもそのまま手が付けられた様子がない。少し長引いたリハーサルのせいで莉里が誘拐されたかもしれないと思うと、血の気が引いた。
すぐに莉里に電話を掛ける。繋がってくれ、と思いながら呼び出し音を聞く。
「もしもし?」と焦った様子もない莉里の声がする。
「莉里? どこ? なんでいないの?」と思わず詰問するような声で言ってしまった。
それなのに莉里はのんびりした様子でアドレスを教えてくれる。慌ててメモして、タクシーで向かった。
あの人もそうだったのだろうか。
メリーゴーランドが止まって、莉里の姿がなかった時。
胸が凍ったようになって、頭がキーンと音がした。
一瞬でいろんな可能性を考えた。ホテルの人さえ怪しんだ。無事で良かったと胸をなでおろしたと同時に、あの人はどんな思いだったのだろう、と考えた。
タクシーで言われたアドレスまで行くと、莉里が店先にいた。その瞬間、抱きしめてしまった。上から降ってく雪ががだんだん大きくなっていく。大げさかもしれないけど、腕の中にあるぬくもりが奇跡に思えた。よかった、と心から安心する。あまりにも俺が必死だったせいで、莉里が謝って、事情を説明してくれた。
ホテルに行ったものの莉里は俺が用意していた花束とクッキーを見て、自分もクリスマスプレゼントを用意しようと出かけたのだった。その気持ちが嬉しくて堪らない。明日のクリスマスまで開けるのが待てなくなりそうだ。
教会でチャリティーコンサートをする。リハーサルの時にメアリーに断って、莉里のために弾きたい曲があるんだと言っておいた。
「あー、スペインでもそんなことしてたでしょー?」
「いいかな?」
「ダメって言っても弾くくせに。…まぁ、明日はクリスマスだから、寛容にならなきゃいけないし、いいんじゃない?」と言いながら弓に松脂を塗る。
教会の天井は高くて残業がすごく残る。俺は調弦のためにA音を鳴らす。メアリーが調弦している時に弦が切れた。
「あ、ちょっと待って。いやだなぁ。本番前に」と言って、ケースを開ける。
弦を張り替えるらしい。
俺は待ってる間にバッハのプレリュードを弾いた。教会はやはりバッハが似合う。音がシャボン玉のように上へ浮かんでいく。
「…あ、待って待って」とメアリーが言う。
「何?」
しばらく待つと、弦を張り終えたメアリーがバイオリンを構えて、アベマリアを弾く。
「分かった。一緒に弾こう」
「もうトラブルがないようにお祈りしながら弾くから」
「そうだね」
音楽を捧げものにして、コンサートの成功を祈る。メアリーの音は他の人と違って、神聖に聞こえた。
「リツ…。やっぱりリツと音楽していたい」
終わった時にそう言われた。俺なんて足元にも及ばない気がしたのに。
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