第42話
コインが跳ねる
莉里が戻ってきて、しばらくは耳が良く聞こえないようだった。全く聞こえないわけじゃないからゆっくり話すと理解してくれる。
「莉里…ごめん」
「もう、何回謝ってるの」と頬を膨らませてくれる。
そうして俺に罪悪感を抱かせないようにしてくれる。しばらく学校を休んでいたけれど、授業に行くことにしたらしい。突発性難聴で飛行機にも乗ってはいけないとドクターストップがかかったから帰国も免れた。あの人は何も言わずに帰って行った。
このまま静かに莉里と一生暮らしたい。
そう思いながら、学校へ向かう莉里を窓から眺めた。誰にも見つけられず、ひっそり息をして暮らすだけでいいのに…。
隣のマシューがこっちを向いて顔を覗かせている。
「来る?」と聞いてみると、ゆっくりと向かってきた。
ベランダの淵を器用に伝って、大きな体に見合わないジャンプをしてこっちにくる。
「マシュー。来るのはいいけどさ。落ちること考えたことないの? 見てるこっちがはらはらするよ?」
そう言って、俺はマシューを抱き上げようとしたら、アルビンが窓から顔をだした。
「リツ、いつもごめん。朝ごはん食べた?」
今日はまだだった。莉里が作ってくれた目玉焼きがテーブルに置かれている。昼に食べてもいいな、と思った。
「まだなんだ」
「じゃあ、おいでよ。美味しいジャム買ったからさ」
「いいの? マシューは?」
「マシューは置いといてくれてもいいし。どっちでもいいよ」
せっかく命がけできたから、マシューを家に置いておくことにする。日当たりのいいソファが気に入ってるのだろう。
隣のアルビンの部屋に行くと、コーヒーの良い匂いがしていた。
「次、ロンドン行くんだって?」
「あ、そうなんだ」
「リリィが嬉しそうに言ってたよ」
「そっか」
何だか他人からそんな話を聞いたら嬉しくなってしまう。目の前にカットされたフランスパンとバターとジャムを置いてくれる。
「イチゴのジャムなんだけど、本当に美味しいから食べてみてよ」
アルビンのおすすめのジャムを塗った。甘酸っぱい味と新鮮な香りが広がる。
「うん。美味しいね」と言うと、アルビンは喜んだ。
「今日はさ、僕の話を聞いて欲しくて」
「え? あ、うん。もちろん。どうかしたの?」と俺はちょっと戸惑いつつ聞くことにした。
アルビンが角にあるカフェで働いている女の子が気になるらしくて、どう声をかけていいのか分からないという相談だった。
「え? だってアルビンだったら…誰とでも」
「…そう思ってたけど。なんか…久しぶりだからか…理由はよく分からないけど、なんて声をかけていいのか分からなくてさ。いつも行ってるカフェだから気まずくなるのも…」と言うアルビンの耳が赤くなっていて、驚いた。
「じゃあさ、とりあえず、二人で行ってみない?」
「そうしてくれる?」
アルビンは北欧の人で、背丈も大きいし、美男子だ。それなのにこんなに緊張することがあるなんて、と思って驚いてしまう。でもそれは外見とは関係のない事なのかもしれない。
「リツは女性に対して、いつも余裕を感じるけどね」
「うーん。そんなことないけど…。好きじゃなかったからかも」
「ん? 酷い事言ってる?」
「…うん。まぁ、そうかも」と言うと、アルビンは笑った。
「でもリリィにはお手上げなんだ」
「そう。困ってる」と言って、俺も笑った。
そんなわけで、男二人で昼食後にカフェに向かう事にした。
莉里の作ってくれた目玉焼きを食べて、ピアノの練習も午前中にしっかりして、アルビンと出かける。二人で店内に入ると、アルビンが目であの子だと教えてくれる。意外な気がしたけれど、飾り気のない感じでボブヘアの大人しそうな女の子で若い。アルビンとの年の差は大分ありそうだから確かに声をかけるのに躊躇すると思った。
「ボンジュ―」とアルビンが言う。
その女の子も挨拶をしてくれる。そして「アルビン、元気?」と聞いてくれた。
「うん。あ、こっちは友達のリツ。ピアニストなんだ」となぜか紹介を始めた。
「へぇ。すごい。初めまして。私、オデット」
「初めまして。リツです」
「ヒツ?」
「り・つ」とむきになって言うけれど、これはいつものことだ、とため息を吐く。
まぁ、俺の名前を憶えてもらう必要もないか、と諦めて「
「ごめんなさいね。中国人の名前…難しくて」
(もうこれも、訂正するのも面倒だ)とアルビンを見ると、アルビンが「彼は日本人だよ」と言う。
「あぁ、ごめんなさい。見分けがつかなくて」とオデットは少し困った顔をする。
「いいよ。似たようなもんだしね」と俺は適当なことを言った。
「ほんと、ごめん」
「リツ、気を悪くしないで」とアルビンにまで言われた。
「してないよ。別に」
言えば言うほど空気が悪くなって、アルビンのサポートどころではなくなった。アルビンもカフェを頼んで、オデットはカウンターに戻って行った。
「…なんか、上手くフォローできなくてごめん」と俺が言うと、アルビンは「ううん。リツのせいじゃないよ」と肩を叩いてくれる。
今更、アルビンはすごくいい人なんだ、と言うこともできず、カフェを運んできたオデットにお金を払う。
「あの、さっきは本当にごめんなさい。私、日本、大好きよ。漫画とか…」
「うん。ありがとう。気にしないで。見分けつかないの、理解できるから」
「あ、漫画ってリツは読むんだっけ?」
「あー、ごめん。それも知らないかも。こっちにくるのが早すぎて…。あんまり知らない」
アルビンががっかりした顔をする。せっかく話が広がる気配すらなかった。
「あ、おつり持ってくるね」とオデットはそう言って、またカウンターに行った。
「もう次が最後だよ。アルビン、電話番号渡したら?」
「え? なんか…これで渡したら失敗しそうだから…」
「じゃあ、どうするの?」
「…明日にしようかな」
小声で言うからお互い体が近くなる。
「明日なんて言ってない…で」
おつりを持っていたオデットに言われてしまった。
「お二人とも仲いいんですね」
お互い顔を見合わせる。
(ん-? なんか、誤解されてない?)
「隣人として、隣人としてです」とアルビンが慌てて言う。
「そう、たまたま隣り合って」と俺も付け足す。
オデットは不思議そうな顔で俺たちを見た。
「それで…」
俺はアルビンに「今だ」と視線を向けた。
「素敵…」とオデットは言う。
(え?)とオデットの方を見る。
「運命ですね」とオデットが言った言葉を脳内で処理する。
(いやいやいやいや)と否定しようとした時、アルビンが言った。
「相談してたんです。どうやってあなたに電話番号を渡せばいいかって」
スローモーションに見えた。オデットの手からお釣りの小銭が滑り落ちていく。カフェの古い床板に小銭が跳ねた。サンチームコインが何度か床の上で跳ねていた。
それでどうなったかって?
また、大抵そうであるように、電話番号は受け取ってもらえた。その後のことは聞いていない。でもあの瞬間、まるで二人の気持ちがきらきらと弾けたようだった。
だから上手くいくんじゃないかなと思ってる。
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