第43話

奉仕


 イギリスへは先に行った。リハーサルもあったから、莉里の荷物も持って、先に出ることにした。


「後から行くからね」と言って、頬にキスをしてくれる。


「気を付けてきて」と言ってから、俺は唇に軽くキスをした。


 莉里が恥ずかしそうな顔をするのが見たかったからだ。何か言いたそうで、唇を動かそうとする口が可愛い。


「じゃあね」


「律…気を付けて」


 すぐに会えるから、と俺は手を振って扉を出る。エレベーター前で振り返るといつものように莉里が顔だけ覗かせていた。


 こんな時、置いて行くのが少し悪いことのような気がする。莉里はどこかまだ幼さが残っている。あの事件から時が止まっている部分があるんじゃないか、と思った。だからと言って、その蓋を開けていいとは思えずに、俺は目を瞑った。




 イギリスに着くと、王立音楽大学に向かう。スペインで一緒に演奏した女の子がそこの出身で、生徒の前で演奏するからと呼ばれていた。リハーサルも兼ねて、演奏することになる。


 英国らしい立派な建物だった。


「リツ」と呼ばれて見上げると、階段の上から呼びかけていた。


「メアリー」


 彼女が駆け下りてきて「久しぶり」と言って、頬を合わせてくる。


「すごい楽しみにしてたの。スペインであなたに会って、それ以上の人はいないと思って」


「買いかぶりすぎだよ」


「そんなことない。疲れてなかったら早速合わせましょう?」


 彼女の方が世界的に活躍していた。有名オケとのコンチェルトだって何回もしている。だからありがたいことだと思う。そう思いつつ、いろんな感情は湧いてくる。


「明日、学内ホールで演奏だから…。ちょっと合わせときたくて」と早口で言う。


「そうだね」


 そこそこスペースのある部屋を押さえててくれた。


「じゃあ、時間がもったいないし、早速練習しようか」と俺が言うと、メアリーはにっこり笑った。


「日本人らしい」


「じゃあ、イギリス人らしい練習ってどう始まるの?」


「お茶からスタートかしら?」と言って、バイオリンケースを開ける。


 英国風ジョークが分かりにくくて、曖昧に笑った。


「でもね…」と言いながら弓に松脂を塗っている。


 俺はピアノの椅子に腰かけて、楽譜を並べるだけで準備は終わるから黙って聞いていた。


「…遠慮して欲しくなくて」


「遠慮?」


「リツらしい音楽でいいから。だからちょっとお互いのことが知ることが出来たらいいなって思ったの」


「なるほどね。何か知りたいことある?」


「それはあるわよ。まず、何歳?」


 年齢から始まって、身体的スペック、出身学校、先生が誰か、最近のコンサート歴まで聞かれる。


「ふーん。リツ、若いのね」


「えー? 老けて見えた?」


「正直、アジア人の年齢分かんない。でもなんか、落ち着いてるよね」


「そっか」


「リツは私に質問ないの?」


「え? 特にないよ」


「最悪」


「どうして?」


「全く興味がないってことじゃない」


「…個人的なことは興味がないよ。幼い頃から世界的有名なバイオリニストだってことも知ってるし」


「恋人いるの? とか、気にならない?」


「ならないよ」


「私はなるけど。いる?」


「…恋人いる」


「やっぱり」とため息を吐く。


「メアリーだったら相手は選り取り見取りなんじゃないの? …そろそろ練習始めない?」


「まぁね。じゃ、始めましょう」


 練習前のお互いを知るための会話のせいで集中力が途切れそうだとため息を吐く。A音をピアノで鳴らす。バイオリンを構えるとメアリーは調弦を始めた。その瞬間、空気が切り替わったのが分かった。さっきまでのぐだぐだな会話をしていた人とは全然違っていた。


 いい音楽が出来そうな気がした。


 前奏を弾き始めるとさすが天才と言われるだけあって、一音で惹きつけられる。神様に愛されてる。そして彼女自身もバイオリンと音楽を愛している。卓越した才能と努力と、そして彼女の個性がすべてが上手くかみ合っていた。


 一瞬、視線を受ける。


『弾いていいよ』と言われている気がした。


 彼女の様子を伺っていたことが分かっていたようだ。彼女が選んでくれた俺には何があったのだろう。何を聴いて、俺と一緒に演奏したいと思ったのだろう。俺ができるだけの、持ってるだけのものを出そうと思った。それは嫉妬や競争じゃなくて、神様に捧げるような想いだった。




 合わせが終わると、メアリ―は満足そうな顔で


「やっぱり良かった」と言った。


「え?」


「リツに会えてよかった」


「そう言ってもらえて。こちらこそ…ありがとう」


「結構、いろんな人と演奏したけど、中には音楽って言うより自分が出ちゃう人も多くて。一緒に音楽作れるか不安だったから」


「…そうなんだ」


「リツは…なんていうか、ピアノを弾くことが奉仕のように感じるときがあるの。私もそうだけど。音楽を私が奏でることは使命だと思ってて、同じような音がしたから」


「ありがとう」


「じゃあ、明日ね。…恋人いるのかぁ」とまた最後に蒸し返される。


「いるよ。大切にしてる」


「素敵ね…。私はどういうわけか上手くいかない」


 そう言って、二人で部屋を出た。


「あ、そう言えば、おいしいお菓子屋さんってある?」


「え? 美味しいお菓子ねぇ」と少し考えてから、駅の近くにあるお菓子屋さんを教えてくれた。


 莉里に何か買ってあげようと思ったからだ。明日は演奏後、少し懇親会があるから時間が取れなさそうだった。


「恋人に?」


「うん。そうなんだ」


「フランスの方が美味しいお菓子はありそうだけど…。本当に好きなのね」と笑われてしまった。


 確かに考えたら、フランスの方が美味しそうだ。


「でも幸せだと思うわ。そこまで思ってもらえて」


「そうかな」


 莉里は幸せだろうか。結構、振り回してしまっている自覚があるから、不安だ。

 学校を出てすぐにあると、指さしてお菓子屋の場所を教えてくれる。


「ありがとう。行ってみるよ」


「じゃあ、また明日ね」とメアリーは赤いバイオリンケースを肩にかけて去っていった。


 明日はいい演奏ができるといいな、と大学を見上げる。重厚な建物に世界中から音楽を学びにくる。いい演奏をしようと自分に誓った。

 天気は曇っていて、雪が降りそうだった。教えてもらったお菓子屋に急いだ。

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