第41話
「あ」「い」「し」「て」「る」
莉里が病院に行った。耳が聞こえない莉里に代わって病院の予約をしたから、何時にどこへ行けば会えるのか分かる。付き添いはあの人がすると言っていた。莉里が家を出てホテルに泊まってから、部屋が広く感じたし、莉里の匂いがそこかしこでする気がした。
『私を使って、復讐したかったのなら、してくれていいから。…。私…怒ってないよ』
莉里がそう言って出て行った。
強がりでも何でもない、莉里は本当に俺のことを愛してくれてたし、信頼してくれたのに。少し気を付ければよかったのに、目の前にいるあの人に腹が立って、莉里を傷つけてしまった。
莉里が自発的に出て行った今のこのタイミングで莉里と別れる選択が浮かぶ。
莉里を俺に縛り付けるのは辞めようとどこかで思っていた。
「でも…」
そう呟く自分の声を聴きながら、幼い莉里が受けた傷は俺以外の人には救うことができない気がしていた。
「愛してる。莉里…愛してる」
陳腐な言葉を繰り返す。
ピアノの同じ音を何度も弾くように、ずっと『愛してる』と呟いていた。
莉里を迎えに病院に行った。秋の黄色い光と風で落ち葉が降り注いでいる道をゆっくり歩く。もう二度と一緒に暮らせなくても、莉里のために、莉里の傷が癒えるように力になりたい。
入口で待っていると、莉里とあの人が出て来る。本当に莉里を連れて帰るつもりなのか、と思って莉里の方に歩いて行って、手を取った。無言で病院の外まで連れて出る。
外は冷たい風が通り過ぎていく。
「…ごめん」
莉里を抱きしめながら謝った。
この数日で痩せたような気がする。莉里が俺を気遣うようにあれこれ話しかけてくるけれど、ごめん以外の言葉が見つからなかった。
莉里の宿泊先のホテルまで送ったけれど、俺は別れられなかった。そんな俺を見かねて、莉里は
「お腹空いたの。…それに薬も飲まないと」と言ってくれた。
近くにあった中華料理店に二人で入った。壁は緑色で塗られて、逆さまになった「福」という字が飾られている。
莉里がメニューを見ている間、俺は何を伝えればいいのか考えた。莉里に嫌われてもいいから、全部話そうと思った。
注文をし終えた後に俺はスマホに向かって話し出す。声は言葉になって、莉里の携帯に届いた。
生い立ちから、あの人への思いから、フランスへ来た理由、フランスでどう過ごしていたのか何から何まで伝える。
話の途中で注文したチャーハンと餃子が運ばれてくる。それにも箸をつけずに莉里はじっと読んでいた。
莉里を使って復讐しようと考えたことは嘘じゃなかった。何度もそう思った。莉里があまりにも綺麗で、純粋だったから。好きになって、好きで、苦しくて壊したくなった。
莉里は一つ一つ真剣に目を通して読み続けている。
俺はスマホに向かって、話し続ける。
(ずっと好きだった。あの頃からずっと)
この想いはスマホを経由したくなかった。テーブルにスマホを置いて「愛してる」と言いたかった。ゆっくりと口を動かす。でも声が出なかった。
莉里が真剣に口元を見ている。
もう一度言った。
「あ」
「い」
「し」
「て」
「る」
莉里の目が揺れている。
「あ」
「の」
「こ」
「ろ」
「か」
「ら」
テーブルに置かれた莉里の手に手を重ねた。
「ず」
「っ」
「と」
そしてスマホに向かって「帰ろう」と言った。
光る画面に映し出されたメッセージを莉里はじっと見ていた。まつげが細かく揺れている。その一つ一つが愛おしい。
最終的に俺を許してくれた。
チャーハンも半分くれる。あの頃と少しも変わらない。
莉里は優しいから。
俺ができること、全て。
全部、莉里のためにするから。
どうか側にいて欲しい。
そんなわがままなことを考えて、莉里が小皿に分けてくれたチャーハンをスプーンですくって、莉里の口の前に差し出す。それを可愛い口で食べてくれる。
それがまるで契約のサインのように思えた。
ずっと二人で一緒にいる。そんな契約に――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます