第38話

後遺症


 忘れられない演奏会になった。帰って来てから俺はすぐに事務所にお城での演奏はNGを出しておいた。


「莉里がやぎのチーズが好きじゃない」と俺は呟きつつ、もう二度と行かないと思ってピアノに向かう。 


 莉里は語学学校に行っていた。




 あの日の夜、莉里がベッドで体を寄せてきた。大抵は俺から手を出してしまうんだけど、その時は莉里が腕を伸ばして俺の体に手を回す。


「律…。今日はとっても素敵だった」


 そう言ってくれるからキスをしようとしたら、笑いだす。きっと逃げた様子を思い出したんだろうと思う。言い訳は何もできずに黙っていると、莉里が肩に口づけをしてくれる。


「今日は不思議だけど、世界でふたりっきりかと思ったの。森でもそうだし。お城でも…。怖い事があっても、二人で逃げれるんだなぁって」


「タクシーが来てくれて助かったんだよ」


「ほんとだね。でも私、途中で何かに追いかけられてる気がして」


「え? 俺も…だけど」


「そうなんだ。でも律がしっかり手を握ってくれたから、昔のこと思い出したの。律、随分大きくなってしまったけど」


 そう言ってくれるのなら、そう思ってくれてたらいいとまた黙る。怖くて力が入ったなんて言い出せなかった。


「追いかけてきたのが…おばけで良かった」


 そう言って、莉里が目を閉じる。


「莉里?」


 すでに寝息を立てていた。


 寝ている時は力が抜けているのか、あどけない顔をしている。


(何が追いかけてきたら怖いの?)


 聞けずに俺も目を閉じる。疲れのせいでぐっすり眠れた。



 莉里がいないと落ち着かなくなってしまった。一緒に暮らしているのに、好きな気持ちが強くて辛くなる。マシューが窓の外から覗いていた。寒くて閉めていた窓を開けると、するっと入ってくる。


「マシュー、好きなんだけど…どうしたらいい?」


 ちらっと見たが、我関せずと日当たりのいいソファの上に乗った。仕方なくピアノを練習する。このピアノもあの人が手配してくれた。いい値段のするものだった。でもピアノには罪がないし、ピアノは神様が作ったから、と思う事にする。


 昼前にマシューを引き取りに隣人のアルビンが来た。


「リツ、いつもありがとう」


「いいよ。別に何もしてないから」


「リツの部屋に入れるのはマシューだけだったのにね」とアルビンがマシューを見る。


 俺はまた大きくなったような気がするマシューを抱え上げて、玄関まで行った。


「あ、そう言えば…ご飯食べるようになったの?」


「あぁ。あれね。あれ、おかしいんだけど。病気じゃ無くて、餌に飽きたって先生が言ってた」


「えー?」


「まぁ、徳用袋を買ってしまって…。違うのを上げたら良く食べて。今はいろんな味に変えてるからか、また大きくなった」


「…よかった? のかな」


「うん。よかったよ。リツは何か悩みがあるの?」


「ううん。…いや…ある…かな」


「聞こうか?」


「え?」


「ピアノの練習、はかどってないみたいだし」


 驚いてアルビンを見ると「同じ個所を延々と弾いてたから」と笑う。


 よくやることだけど、またやってしまった。納得できなくて、気が付いたら延々と同じところを弾いてしまう。


「過集中しちゃうんだよ」


「…みたいだね」


「問題…ありかな?」


「いや、男性はそういう習性が あるよ。だから…専門家って男性が多い。まぁ、そういう傾向ってことで必ずしもそうじゃないけど」


「うん」


 アルビンが部屋に誘ってくれた。


「君は自分以外部屋に入れるの苦手そうだから、うちにおいでよ」と言ってくれる。


 いつもなら遠慮するけれど、いろいろ思うこともあって、行くことにした。アルビンは旅行が好きなのかいろんな国のものが飾られている。アフリカのお面やら、ベトナムの人形まで幅広い。


「日本に帰った時、何か買ってあげればよかったかな」


「いいんだ。これは記念だから。自分が行って、見た…思い出みたいなもので」


 そのお土産に囲まれて幸せそうな家族写真が飾られていた。その家族は事故で亡くなったらしい。それが原因でスウェーデンで心理学を学び、パリで教鞭を取るようになったと聞いた。


「アルビン…」


「何?」


「幼い頃の傷って、知らないままの方がいい?」


「え?」


「あ…うん。なんていうか、本人が忘れてしまってた場合はそのままにしておくのがいいのかなって」


「…そうだね。今、何も問題がなければいいと思うよ」


「問題…ね。それは…ないとは言えないけど」


「…まぁ、程度によるけどね。でもね。ふと思い出してしまう瞬間があるんだよ。何かにリンクして、ふと思い出すことがあったら…辛いだろうね」


「何かにリンク?」


「そうだね。例えば、似たような場所、人、時間、匂い、人によってさまざまだけど、突然、ふと記憶が首をもたげてくる」


「…」


 その可能性は考えてなかった。今まで莉里が苦しむ様子を見たことがない。


「だから…もしそうなったら、病院に行ったり、辛かった過去の出来事と今は違うんだって切り離して考えられるように支えてあげないとね」


「…ありがとう」


「他にも何かあるんじゃない?」


「え?」


 俺はアルビンが何を言わんとしているか、探った。

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