第29話

問題


 最近、莉里は起きて待ってくれている。だからピアノのレッスンが終わって食事を先生に誘われることもあるけれど、断って早めに帰ってくる。


「莉里、途中でケーキ買ってきたよ」


「ありがとう」と嬉しそうに微笑んでくれる。


 もう遠慮せずに莉里を抱きしめた。


「ご飯とお味噌汁と…卵焼き作ったの。チキンはロティ買ったから…」


「ごちそうだね」


「だから…離して」


「うん」と言いながら、さらに力を込めてしまう。


「もう。律」


「莉里、愛してる」


 陳腐な言葉だけれど、それ以上言いようがない。


「…うん。私も」


 いつもそう言ってくれる。俺は誰かに愛されたかったのか、と莉里の言葉が胸に満ちて来て、実感する。干からびた胸に水が流れ込んでいくようだった。


「莉里…愛してる」


 その言葉を繰り返す毎に莉里は何度も返してくれた。まるで枯れない泉のように注いでくれる。


「私も愛してる」と頬にキスをくれる。


 莉里の優しさに溺れたい。でも俺が莉里を幸せにするって決めたから。


「ご飯、ありがとう」と言って体を離す。


 二人で食卓を囲むと幸せな気持ちになった。今まで切なくて、莉里をまともに見れなかったけれど、これからはずっと見てもいいんだと俺は遠慮なく見る。


「何? 味がおかしい?」


「ううん。美味しいよ。なんか…幸せだなぁって思って」


「え?」と驚いたような顔をする。


「好きな人が側にいてくれて…。本当に…心から嬉しい」


 そう言うと、莉里がなぜか涙を浮かべる。


「律…ごめんね。私、何も分かってなくて」


「え?」


 今更、やっぱり嫌だとか言われるのだろうか、と胸が痛くなる。


「私、律が可愛くて、それで…分かってなくて。ただ可愛くて…」


「それって…いまも?」


「ううん。今は…正直、久しぶりに会った時はすごくどきどきしちゃった」


 莉里は空港で俺の面影がある成人男性を見て、驚いたと言う。


「だって、昔は…本当に可愛かったから」


 その頃は本当に可愛いだけだったんだな、と思った。恋愛感情は何もなかった。俺の一人相撲だったってことか、と軽く落ち込んだ。


「でもね。私、律じゃないと駄目だった。他の人じゃ…駄目で」


 莉里が作ってくれた卵焼きを口にする。優しい味わいが広がった。


「莉里の…優しさに漬け込んでない?」


 莉里は首を横に振ってくれる。


「だって、律は…本当に綺麗だから」


「それって見た目?」


「見た目も…気持ちも」


「気持ちはそんなでもないけど」と言って、また卵焼きに手を伸ばす。


「だって、私のこと幸せにしようと頑張ってくれてるから。でもね。私も一緒にいられるだけで本当に嬉しい。私、一人であの家にいて、律を大切にできなかったことも悔しかったし、それに一人になって淋しかった。律に会いたかった」


「小さい俺に会いたかった?」


「それは…もちろん…でも律はきっとイケメンになるって思ってた。それが想像以上で、ちょっとドキドキしちゃって」と恥ずかしそうに味噌汁のお椀で顔を隠す。


「でも莉里って別に俺が緑ちゃんと一緒でも普通だったけど…」


「それは、そうよ。なんかそこで怒るのも変だなぁって。でも律に対して失礼な時は怒るけど」


 確かにそうだった。緑ちゃんのお父さんが上から目線で、俺にホテルのロビーで演奏させてあげようと言った時は、莉里はものすごく怒っていた。


「じゃあ、どこを好きになってくれたの?」


「律の…外見?」


「え?」


 思ってもいない言葉に驚いてしまう。莉里がそんなことを言うなんて想像もしなかった。


「だって中身は…いろんな女の子と遊んでて…」


「引いた?」


「引いたっていうか、心配になって。誰かに刺されたりしないかなって」


「え? じゃあ、外見以外はなかったの?」


「あるよ。いつもピアノ弾いてくれたり、親切にしてくれたり」


 そんな話を面と向かってすることがなかったから不思議で新鮮だった。俺は莉里の外見も中身も匂いも声も好きだ、と言ったら、莉里は顔を赤くして、チキンを頬張った。


「今日…暑いね」


「窓開ける?」と莉里が立ち上がる。


「莉里…。これからそっちで寝ていい?」


 立ち上がった莉里の手を掴んだ。




 別に寝たからと言って、必ず毎回セックスするつもりはなかった。でも手の届く範囲に莉里がいるから、我慢できない。


 何度も名前を呼ぶ。その度に、莉里の手が優しく体のどこかを撫でてくれる。愛情を感じながら、莉里を抱いた。


 そんな日々を送っていると莉里が不安そうな顔を見せる。


「どうかした?」


「あ、ううん。何でもない」



 数日すると、明るさを取り戻すから、どうしたのかともう一度聞いてみた。恥ずかしそうに生理が遅れていただけだった、と言う。


「そう…なんだ」


「あ、律はちゃんとしてくれてるけど…。ゴムだって…完璧じゃないし…」


「うん。ごめん」と恥ずかしそうな莉里に謝る。


「あ、そんなの謝らないで」


 俺は我慢できなかったけれど、そのせいで莉里に不安を与えていたことを初めて知った。きちんと避妊をしていても、もちろん妊娠する可能性がないわけじゃない。普通のカップルだったら、子供ができてもそれなりに前に進めるかもしれない。俺は初めて自分がしたことが大きな問題になると実感した。


「薬も併用しようかな。生理痛も楽になるって言うし」



 莉里ばかり負担が増える。俺は即決した。パイプカットの手術を決断する。スケジュールを見て、秋に日本に帰国して手術することに決めた。ただ若い人に対して、その手術をしてくれる病院は少ないが、何とか見つけてすぐに予約を入れた。


 子どもは別に嫌いじゃないけれど、莉里を苦しめることになるなら、望まない。


「本当にごめん。莉里は…子ども好きだよね?」


「え? 私は…りっちゃんだから好きだった」


 子どもの頃の呼び方で言われる。


「子ども作らないように気を付けるから。もし子どもが欲しくなったら別れてくれたら」


「どうしてそんなこと言うの?」


 莉里の細い手が伸びて頬に触れる。


「私は律が欲しいだけ」


 何もかも差し出したくなる。


「いいよ。全部…受け取って」


 夏は夜もずっと明るい。肌が触れ合って、熱が引かなくて、寝不足の日々が続いた。

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