第28話
贖罪
腕の中に莉里がいることが夢のようだった。何度と想像したことなのに、現実なのに実感できなくて、ふわふわした気持ちになった。
「律?」
不安そうに莉里が名前を呼ぶから、俺は頭を軽く振る。
「莉里、愛してる」
陳腐な言葉だなと思いながら口にした。それなのに、莉里は恥ずかしそうに目を伏せてくれる。
「私も…」と言いながら、恐る恐る手が首の後ろに回る。
莉里の細い指を感じると、気がおかしくなりそうだった。
「どうしていいか分からない」
部屋はカーテンを閉めたとは言え、長い昼間の明かりが差し込んでいる。その明るさが時間の余裕を教えてくれる。
「嫌だったら、教えて」
首を横に振っている莉里の肩口にキスをした。触れてはいけないと思っていたのに、柔らかな白い肌に唇をつける。
「これは…大丈夫?」
「…うん。律だと…いいから」
「じゃあ…」と一々確認を取ろうとしたら、莉里に手で口を塞がれた。
「もう。何してもいいから」
無自覚に殺しにくるなぁ、と塞がれた手を舐めた。慌てて手をひっこめる莉里を見て、少し可愛くて笑ってしまう。額を額にくっつける。
「莉里も好きにしていいから」
「好きにって…」って言うから、俺からキスをした。
それだけで溶けてしまいそうだった。もちろん性欲もあるけれど、こうしているだけで、満たされる。しばらくキスをしていると「こういうことは初めてだから、上手くできない」と莉里がこっそり教えてくれた。
「俺も…」と嘘をついたら、枕を軽くぶつけられた。
「嘘つき」
「半分だけ。…初めてじゃないけど…上手くできない」
「どうして?」
「どうしてって…莉里が…」
不思議そうな顔で見てくる。
(愛おしいから…)
親切にしてくれたから?
優しくしてくれたから?
綺麗なお姉さんだったから?
好きになった理由ははっきり言えない。それでも俺はずっと莉里を想ってた。莉里がどこかで幸せであってくれればいい。違う人とでも楽しい時間を過ごしてくれたらいいと思っていた。それなのに、素肌に触れ合うことができて、それだけで奇跡だった。
「私のせい?」と不安そうに聞く。
首を横に振る。綺麗な莉里を眺めていると、自然と涙が溢れそうになる。
「好きすぎて…上手くできない」
「そんな…」
「本当に心から…ずっと…好きだったから」
「律…私も」
それは嘘だ、と思いながら、でも莉里の頬に落ちた俺の涙をそっと拭った。莉里の手が、指が髪に差し込まれて、優しく撫でられる。
「好きなの、知らないふりしてた」
優しい嘘だ。
それでも嬉しくて、俺は莉里の頭の横に顔をうずめた。莉里に耳を甘く噛まれる。
「律、大好き」
柔らかい声が耳に流れ込む。
嘘でもたくさん言って欲しい。その気持ちが分かるのか、何度も好きと繰り返してくれた。ふわふわしてくる。熱に浮かされたようになって、莉里を抱いた。
胸に抱いた莉里は疲れたのか、眠ってしまった。
ベッドから抜け出て、今日、ピアノの練習していないことを思い出した。バカンスの時期で、上下両隣留守しているから夜でもピアノを鳴らした。ここの住人はおおらかな人が多いから、にぎやかなパーティをしてもそんなに咎められない。なんなら、にぎやかなパーティに苦情に行った人がそこへ取り込まれて、パーティを楽しんだりする。だからピアノの音もそんなに神経質に言う人がいなかった。
指練習をしながら、莉里を抱いたことを思い出す。しなやかな肌が汗ばんで、いい匂いがした。とても官能的な声が耳に残っている。でも良かったか、と考えない。考えると、やはりそれは良くないことだったから。
莉里は口に出さなかったけれど、きっと内心、謝っていた。誰にかは分からない。
許されない二人――。
特定の宗教を信じてはいないだろうけれど、良心――というか、神様に莉里は許しを乞ったかもしれない。それで神様は許してくれるのだろうか。
罪を犯した莉里の気が重かったのは伝わっていた。
莉里を幸せにしたいと思っていて、だれより俺が不幸にした…のかもしれない。
しばらくピアノを弾いていると、莉里が起きて、シャワーを浴びている。怖くて声をかけられない。
本当は我慢していたのかもしれない。
知らないふりでピアノを弾き続けるしかなかった。しばらくすると、莉里から声をかけられた。何も気づかなかったような顔を莉里に向ける。莉里はピアノの音が近所迷惑にならないか気にしていた。そんなところも可愛い、と思いながら後悔しているか聞いてみた。
莉里から抱きしめられてキスされた。
それだけで俺は何もかも捨ててもいいと思えた。莉里が謝った神様さえ――。
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