第30話

電話


 暑い夏だった。ピアノの練習をしていても汗だくになる。ランニングシャツで弾いていても暑くてたまらない。莉里がタオルを凍らせてくれて、それで背中を拭いて気持ちがいいけど、すぐに暑くてばててしまう。


「律…大丈夫?」


「あー、もうこんなに暑いと何にもできない。夜に練習する」


「ほんと?」と莉里が顔を覗きこむから、そのまま抱き寄せてキスをする。


 むくむくと沸き上がる性欲と練習放棄してしまいそうになる罪悪感とうしろめたさを感じていると、莉里は体をするりと抜けて離した。


「お邪魔になるから、ちょっと買い物してくるね」


「…暑いから練習したくない」


「でも律…本当は練習しないとって思ってるんでしょ?」


 それはそうだった。莉里には何でも伝わってしまう。


「後、少しだけ…」と言うと、莉里は微笑んだ。


 天使みたいに綺麗な笑顔で。


 何でも莉里は分ってくれる。その上で最高の選択を与えてくれる。


「じゃあ、出かけてくるから。夕方戻るね」


「…莉里。今日は外食しよう」


「え?」


「じゃないと…。一歩も家を出なくなりそう」


「そうね。分かった。冷凍庫にタオルまだ凍らしてるのあるから」


「うん。ありがとう」


 莉里がいなくなると、莉里の次に大切なピアノに向かい合う。スペインでの演奏は莉里も聴いてくれるんだから、と気合を入れ直した。



 夕方近くになって、少し休憩を取ろうと立ち上がるとくらくらする。冷蔵庫に冷やされたバナナが入っている。それを食べながら、窓の外を眺めた。もうすぐ莉里が帰ってくる頃だった。


 最近の夏はフランスでも暑くて、エアコンをそろそろいれようかと考えるんだけど、パリで業者を呼ぶストレスを考えると我慢してしまう。


 それより莉里が自分の部屋なのに俺に遠慮して出ていくのはかわいそうだな、と思った。


 莉里が可愛いから…我慢できない。


 でもその分、莉里に我慢させている。


 どうにかしないと、とため息を吐いた時、電話が鳴る。あの人からだった。


「律…。こっちでリサイタルするって聞いたけど」


 日本のピアノの先生に連絡していたから、そこから聞いたんだと思う。


「はい」


「莉里と…会ってるのか?」


「まぁ…。姉弟ですから。ご飯食べに行きますけど」


 近くにいることを莉里の母から聞いたんだろうと思った。


「ドイツにいい先生がいるらしいんだ。ドイツに行かないか?」


 なるほどね、と感心してしまう。次はドイツへ追いやるつもりだ。


「いえ。それは…こっちの先生を尊重しなければいけないので」


 それで援助を打ち切ると言われたら、そこまでだなと思いつつ、床を眺めた。床の大きな傷をつま先で擦る。

 結局、食べさせてもらっているし、ライフラインを断たれたら困るのはこっちだ。他の楽器だったらオーケストラとか入れたかもしれない。そんなことを考えていると


「日本に帰って来たら、食事でもしよう」と言われる。


 本当は行きたくないけれど、断らなかった。どうせそんな約束が果たされることはない。


「分かりました」とだけ言って通話を切った。


 この苛立ちはなんだろうと、思い、窓から外を眺める。通りの向こうから莉里が歩いてくるのが見えた。

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