第23話

鈍感で綺麗な姉



 莉里は本当に綺麗になった。これまでに恋愛したのかもしれない。一人でピアノを練習していると、莉里のことばかり考えてしまう。


「集中、集中」と思っていると、窓からマシューという大きな猫が入り込んできた。


 マシューは隣人の飼い猫でよくうちに遊びにくる。


「最近、来なかったね。どうしたの?」と顎を撫でると気持ちよさそうな声をした。


 マシューは日当たりの良い時間、ソファに飛び乗ってそこで昼寝をして帰って行く。マシューに聞いてもらおうとピアノを弾いた。観客は唯一マシューだけだったのに…と苦笑いしていると、ベルが鳴った。莉里なら鍵を渡しているので勝手に入って来るはずだ。


 玄関に向かうと、隣人のアルビンだった。


「あ、リツ、ごめん。マシュー来てない?」


「来てるよ」とソファを指さす。


「はぁ。今から病院に連れて行くんだ。ごめん。察して逃げたな」と言うから、連れてくる。


 かなりずっしりした重さがある。


「重いね」と言うと、アルビンは「そうなんだ。大きくなる種類とは聞いていたけど、こんなに大きいなんて」と肩を竦めた。


 アルビンに渡そうとすると、嫌がったが仕方がない。


「病院、行っておいで」と言って、引き渡す。


「ほら、元気になろう」


「どこか悪いの?」


「うん。餌を食べなくなって」


「心配だね」


「そうなんだ。いつもありがとう」


「いいよ。良くなるといいね」


「ありがとう。あ、そう言えば…お客さん来てる?」


「あ、うん。姉だよ。しばらく一緒にいる」


「そっか。恋人かと思って。この間、お土産渡そうと思ったんだけど…。なんか仲良さそうだったから、お邪魔しなかったんだよ」


「…そうなんだ。気兼ねしないで」


「綺麗な人だね」とアルビンが言うから俺はドキッとしてしまった。


「…そう…だね」


 アルビンはマシューを肩に乗せて、部屋に戻って行った。


 莉里はヨーロッパ人から見ても綺麗なのか…と変な気持ちになる。そう言えばナンパされたとか言ってたな、と思うと落ち着かない。こうしている間にも莉里がナンパされているかもしれないし、それはありうる話だった。


 携帯が鳴って、相手も見ずに通話ボタンを押してしまった。バイオリン専攻の杏ちゃんだった。


「律君、久しぶり。またパリに帰ってきたよー」と明るい声が聞こえる。


「ロンドン良かった?」


「うん。まぁね。でも私はフランスの方が合ってるかなぁ。暇してる? 会わない?」


「あ。ごめん。もうそう言うの辞めたんだ」


「え?」


 杏ちゃんとも体の関係があったことを思いだした。大抵の子には断ったけれど、杏ちゃんはロンドンに行っていたから、すっかり忘れていた。また戻ってくるなんて思いもしなかったし、とどうしようかと思っていると


「伴奏はしてくれるでしょ?」と言われた。


「いいけど…。本当に伴奏だけ」


「もー。どうしてノリ悪い」


「ごめん」


「謝らないでよ。私、絶対あきらめないんだから。バイオリンのコンクールで一位になったら、付き合ってよね」


「え? それ関係ある?」


「あるわよ。私と一緒に世界ツアーしましょ」


「ツアーって。…でも付き合わないよ」


「ともかく、伴奏お願いね。後、フェットドラミュージックも一緒にしよう」


「…あ、そっか。そろそろだね」


「分かった? 一緒にするからね。腕を上げた私を見て、驚きなさい」と言って、電話が切れた。


 杏ちゃんは本当にバイオリンが向いている。自信たっぷりで、主人公じゃないと堂々と嫌だというタイプだ。そういうところは正直可愛いとは思うけど。


 身体をソファに投げ出す。


「かわいい子はいっぱいいるのになぁ…」


 どうして好きにならないんだろう。手を伸ばして届く範囲で愛し愛されるといいのに。時々、桃花さんのことを思い出す。幸せになってくれていたらいいけど。


 レッスンの時間が迫ってきたので、起き上がって、楽譜を鞄に詰める。オーストリアの演奏予定の曲を見てもらうためだった。





 そのせいで莉里とすれ違いの生活をしている。それも明日で終わる。莉里は滞在許可書の申請でバタバタしていた。夜遅く帰ると、もう寝ているのだけれど、今日は起きていた。


「おかえり」と玄関まで来てくれる。


 パジャマ姿で出迎えてくれて、心臓が止まるかと思った。あまりにも俺が動かないから、莉里が首を傾げた。


「どうしたの?」


「…寝てると思ってたから」


「あ、いつも寝っちゃってるから。今日は申請が無事に終わったから…後は受け取りだけなの。それで嬉しくて」


「それで起きてたの? お疲れ」と言って、靴を脱ぐ。


「律も。いつも遅くまでお疲れ様」


「うん。明日からオーストリアに行くから」


「ウィーン?」


「うん。前に言った演奏旅行。若手の演奏家がオケの前座で弾かせてもらえるんだ」


「すごい」


「まぁね。でも本当はコンチェルトしたい。中入っていい? いつまでも玄関先だと…」と言うと、莉里は慌てて体を避けた。


 テーブルに何か置いてある。


「それでね。律のおかげだから…。滞在許可書を申請できたのも。こうして安心して暮らせるのも…」


「…」


 小さな花瓶にピンク色の芍薬とバラの花束と、チョコレートの箱が置かれている。小さな手書きのメッセージカードも添えられていた。


「本当は寝ようと思ったんだけど、帰ってくるのが楽しみで」


「莉里…ありがとう」


(あぁ…莉里のことが好きな理由が分かった)


 他の女の子とは違って、莉里は俺に何も期待していない。それなのに優しくしてくれる。


「チョコ、明日食べる?」


「今食べる。本当にありがとう」


「じゃあ、コーヒーは…だめか。お茶、飲む?」


 莉里のこと抱きしめたくなるのを必死で耐える。


「大丈夫。もう寝ていいよ。一人で食べるから」


「え?」


「眠くないの?」


「ううん。眠くないから一緒に食べよう」


「チョコ食べたかった?」と言うと、ちょっと恥ずかしそうに笑う。


 ずっと買ってみたいと思っていたお店のものらしい。何かきっかけがないかと思ってたから、と言う。手書きのメッセージには「いつもありがとう。コンサート頑張ってね」とちゃんとコンサートのことも覚えてくれていた。


 莉里は少しも好きになってくれないのに、好きにさせる天才かもしれない。チョコレートは小さな箱に綺麗に並んでいる。真っ赤なハートのチョコレートもあった。


「先に選んで」


「じゃあ、このハート」と言って、俺はつまもうとしたが、上手く取れない。


 莉里がそれを見て、取ってくれた。手渡そうとするから、口を開けた。


「りっちゃん」と驚いた莉里は小さい頃の名前で呼んでしまう。


「だって、疲れたし」


「え? 練習して指が疲れたの?」


「うん」


 なんとも間抜けな嘘を莉里は信じてくれる。開けた口にチョコを入れてくれた。指が唇に触れる。チョコレートじゃなくて、莉里の指を噛んでしまいたい。そういやらし

いことを考えているのに、莉里は自分のチョコレートを選んでいた。


(ノーダメージか…)


 がっかりしていると、頬が微かに赤くなった莉里が言った。


「そういうことは恋人にしてもらいなさいよ」


「じゃあ、はい。あーん」と聞いてないふりをして口を開ける。


「え?」


「だって恋人は今、いないから。明日頑張って弾くために指を休めるから」


 またくだらない言い訳を莉里は信じてくれる。


「今いないって…」と言いながら、またチョコを口に運んでくれる。


「今はね」とわざと返事して、莉里の指先を唇で軽く挟んだ。


 ちょっと慌てたように手を引っ込める。


「じゃあ、いたの?」と引っ込めた手をどうしていいのか分からずに指先を見つめながら言う。


 その横顔が綺麗で見つめてしまう。


「前にね…。もう別れたけど」


「そう…な…んだ」と少し安心したような顔を見せたのは俺の願望かもしれない。


「莉里もどうぞ」とチョコを口元に持っていくと驚いた顔をしつつ、小さく口を開ける。


 かわいらしい唇でチョコを挟んだ。


「美味しいね」と俺が言うと、莉里はふと「あれ? 指使って…」と言った。


 たまらず笑ってしまって、莉里に怒られた。


「もう、なんて悪い子。だますなんて」


「いや、あの時はほんと、指がだるくて。チョコ食べたから元気になった」


 めちゃくちゃな言い訳をまた莉里は信用した。本当に優しくて鈍感で綺麗な姉だ。だから心から心配そうに「荷造り、手伝おうか」とまで言ってくれる。


「ううん。ほとんど終わってるから」と断る。


 そこまでしてもらったら罰が当たりそうだ。


「律…。明日は頑張ってね。見に行けないけど。行けばよかったかな」と莉里が優しそうな顔をして言う。


 いつか嫌というほど、俺のコンサートを見てもらおうと思った。莉里はもともとそんなにクラシックに興味がない。なんなら、すやすや眠ってしまうタイプだ。


「いつかパリでする時は来て」


「…うん。じゃあ、お休み」


「お休み。ありがとう」


 静かな夜だ。静かに荷造りをしているけど、俺の唇に莉里の指の感触がいつまでも消えずにいた。

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