第22話
早く好きになって
夕方に莉里が帰ってきて、入れ替わりに俺は先生の家にレッスンに行く。
「莉里ちゃん、ごめんね。夕飯一人にして」
「あ、大丈夫。えっと…なんか買ってきたから」
「なんかって」と俺は少し笑ってしまう。
不安げになっている莉里に「金曜日は一緒に外食しよう」と言うと、すぐに明るい笑顔を見せてくれる。
「部屋は見つかった?」
「二、三件見せてもらったんだけど…。時期が悪いのかなぁ。これっていう物件が…。あ、でもすぐ見つけるから。ほんと、ごめんね」
「いいよ。ゆっくり探して。納得いく物件じゃないとね? もし決まりそうなら教えて。時間作って一緒に見に行くから」と俺が言うと、素直な莉里は感動していた。
その物件のダメなところを見つけるために行くというのに、と思いながら部屋を出る。マンションを出たところで、緑ちゃんから電話がかかってきた。
彼女の父はホテル経営をしていて、大金持ちだ。緑ちゃんもちゃんと婚約者がいつつ、結婚前にパリの音楽学校に留学してきた。留学というか思い出作りみたいな感じだったから、何回かセックスした。
「ここでは恋人ってことにして?」
「別にいいけど」
そう言って、べったりくっつかれるのが面倒になって、コンクールを理由にして、会わないようにした。そのおかげで練習に打ち込めたし、成績もよかった。だから彼女に感謝している。
でも莉里が来る一月前に「好きな人が来るから」と言って、もう恋人ごっこは辞めたはずだった。
「もしもし?」
「あ、律君? キーシンのコンサート行く?」
「あ…うん。どうしようかな」
「チケット取ろうか?」
「あ、いいよ。分からないから」
「そう? いい席押さえとくけど」
「ありがとう。でも予定が分からないから」
「…あの。家にこない?」
「ごめん。今からレッスンなんだ。ごめんね」と言って、電話を切る。
緑ちゃんは顔がかわいいのに、婚約者を裏切っている。どこか寒くなる。でも俺も人のことは言えないな、と思って急いで地下鉄の入り口に向かった。
レッスンが終わって、部屋に戻ると、莉里はベッドで眠っていた。安心して眠っている姿を見ると、俺のことを完全に弟だと思っているのが分かる。
莉里にとっては可愛い弟でなければいけない。
きっとその枠なんて絶対外れることはない。
だから可愛い弟のままでいる。そしたらきっと莉里はお願い事を何でも聞いてくれる。
(何をお願いしたら…復讐になるかな)
疑うことなく眠っている莉里に顔を近づける。
『りっちゃん…』
そう言って優しくしてくれた莉里を利用しようとしている。
とりあえず部屋探しは早々に諦めてもらおう、と俺は思った。
そして思惑通り、部屋探しに疲れた頃に一緒に住むことを提案した。滞在許可書を取るために慌てて部屋を探さなくていい、と上手い事を言って、莉里を説得する。
素直な莉里はそれを受け入れた。弟と住むことになんの疑いも抱かない鈍感さが辛かった。
呼び方も子供の頃から変えてもらった。
「りっちゃんは子供っぽいから恥ずかしい」と言うと、すんなり受け入れてくれる。
少しずつ弟から逸脱するように―。
ゆっくりと変えていく。
レッスンが先生の都合で、夕方になった。急に雨が降ってきて、傘を借りて、部屋まで戻ると、莉里がテーブルで何かを捏ねていた。
「莉里? 何作ってるの?」
「あ、動画見てたら、なんか美味しそうだから…。生地にオレンジジュース入れるの。後は…中身は分からないんだけど」
「分からない?」
近寄ると動画を見せてくれた。イタリアか、どこかの街角のお店で、半地下で料理している。
「中身…なんだか分からないね」
「うん。だからミートソースにすることにして、この上の…ちょっと甘そうなのは…マーマレードいれようかな」
「…独創的だけど…合うかもね」
マーマレードには絶対見えないが、なにか甘そうな雰囲気がしていた。生地をまるく器のようにして、そこにミートソース、上にマーマレードを乗せる。さらに生地で蓋をして焼くらしい。
「ピアノ…練習していい?」
「うん。ぜひ」と莉里が言うからピアノを弾く。
さっき習ってきたことの復習をする。しばらく弾いていると、視線を感じて、振り返ると莉里がこっちを見ていた。
「どうしたの? 上手くいかない?」
「ううん。あ、これは上手くいかないかも…だけど。ピアノ…本当に上手だなぁと思って」とはにかみながら言う。
「ピアノだけは…ね」
「そんなこと…」と莉里は言って、その後の言葉は続かなかった。
間違いなくピアノしか人より秀でたところはない。
「でもピアノで一番になるから」
「うん。応援してる」と素直に言ってくれる。
「莉里…ありがと」
頬が少し赤くなって、またはにかんでくれた。
(莉里、好きになって。俺のこと、好きになって)
そう思って見つめると、目を逸らされた。
そして莉里も不安を抱いていた不思議な食べ物は思った以上に甘くて、夕食にはならなかった。
「これ、私が食べるから。律は違うの…」
「じゃあ、一緒に食事に行こう? 珍しくレッスン早かったし」
「え? でも雨だけど」
「傘さして、行こう」
「あ、傘…。折りたたみしかない」
「俺の大きいから一緒に入って行こう」
先生から借りた傘のことはそのまま入り口に立てかけてある。
「うん。近く?」
「近く。角を曲がったところにピザ屋さんあるし、その隣は…なんちゃって日本食屋さんもある」
莉里は嬉しそうに頷いた。そしてオーブンから出した謎の包み焼きはそのまま置いていく。
玄関を出ると、先生の傘を莉里は見つける。
「それ先生から借りてる高級ブランド傘だから」
「あ、じゃあ、壊しちゃだめよね」
莉里は勝手に納得してくれる。
「今度、莉里の傘も買おうか」と言って、傘一本だけ持って出かける。
雨はしとしと降っているから、二人でくっついて傘に入った。
「莉里、濡れてない?」
「うん。大丈夫。律は?」
「いいよ」
「え?」
「雨っていいね」
「雨? 好きなの?」
俺は頷いた。莉里の体温が肩に触れる。同じシャンプーを使っているのに、莉里からはなぜか甘い匂いがする。雨のカーテンのせいか匂いが篭る。
「私が傘、持とうか?」
莉里の方が背が低いのに、そんなことを言うから、渡してみた。するとやっぱり腕を上げるのが大変で、少しずつ下がってきて、俺の頭につく。
「ごめん」と慌てて、また上にあげる。
「いいよ。ほら」と言って傘を取る。
「律、しんどくない?」と顔を覗きこまれる。
「莉里ほどじゃない。けど…練習で疲れたからなぁ」と答えながら、何度も思う。
(早く、好きになって。俺のこと、早く好きになって)
「もう」と莉里が頬を膨らませながら、傘を取ろうと俺の手に触れる。
柔らかな感触、細い指、可愛い声。
(早く、好きになって。俺はもう―)
「莉里、いいから」と傘を一段と高く上げる。
雨の夕方、じゃれ合う口実が見つかって、初めて雨が好きになった。ずっと雨が降り続けたらいい。
傘の取り合いをして、結局、二人とも外側の肩が濡れていた。
食事後の雨がやんでしまったのは本当に残念だった。でも夜の道が濡れて街灯の光が反射して綺麗だった。水たまりを避けて歩く。
「懐かしい」と莉里は呟いた。
「え?」
「夜に一緒に歩くの」
「…そうだね。たまにはいいね」
莉里が幸せそうに微笑むから、本当にまた夜に出かけたいと思う。でもその度に、俺は莉里への気持ちが増えていくだろう。莉里は少しも気づかないまま。
莉里の手を握れなくて、傘をぎゅっと握りしめる。
それを知ってか、知らずか莉里は傘を取ろうと俺の手のうえに手を重ねた。
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