第16話
一緒に寝よう
「桃花さん…」と名前を呼びながら、肌に触れる。
小さなベッドの上ではさっきまで感じていた罪悪感が消滅して、たぎる想いに体が支配される。
「律君…。気にしなくていいから」
「え?」
背中を桃花さんの指が辿る。
「私のこと…。私だって…律君のこと利用してるから」
そう言われてるのに、少しも理解できない。桃花さんが欲しくて、欲しくて仕方がない。
「そんなこと」と言って唇を塞ぐ。
柔らかい感触にずっと溶けていたい。
「いいの。…今だけで。充分だから」
途切れ途切れに言う言葉が耳の側で囁かれる。
「…今だけ?」
「そう、今だけ…愛してる」
桃花さんの声が脳に直接響いた。
愛してる。その言葉だけで墜ちた。深く沈んで行くのが分かる。
「…俺は…」
それ以上何も言えずに、桃花さんを求めた。
終わった後、女性はこんなにもドライなのかと思うくらい桃花さんはすぐに起き上がって、シャワーに向かう。
その間、罪悪感と向き合けど、疲労が眠気に勝てなかった。
行為の間、愛してるとお互い言うのに、終わったらまるでシャボン玉が弾けるように消えてしまう。そんなことをつらつら考えていると眠ってしまった。
パンの焼ける匂いで目が覚めた。重たい体を起こすと、にこにこしながら桃花さんがこっちを見ていた。
「おはよう」
「え? 今何時?」
まだ暗いけどまさか一晩寝てしまった…かと慌てる。
「夜中の二時」
「…パン食べて…」
「だってお腹空いたから…いる?」
自分が裸であることが急に恥ずかしくなる。
「先にシャワー使っていい?」
「いいわよ」
「なんか恥ずかしいから。目を閉じてて」
「えー」と言いつつも閉じてくれた。
でも寝てる時の顔は無邪気で可愛いかっただのなんだのと口は閉じなかった。
いつもそう言う適当なことを言って、何もかも軽くしてしまう。それが優しさだとは分かっていても、それに甘えていていいのか分からなくなる。シャワーを浴びていると、物理的にスッキリしてしまう。もちろん気分もだいぶ爽やかになった。
シャワーありがとうと言うと、桃花さんは微笑ながら
「パン食べる?」とバゲットを振り回す。
「うん」と言うと、フライパンにバターを放り込んで、カットしたパンを入れる。
そしてインスタントのスープを作ろうと、お湯も沸かしてくれた。
「桃花さん…本当にありがとう」
「え? インスタントにしたことに感謝してるの? そりゃ、自作のスープより味は保証されるけど…」とまた笑えない冗談を言う。
「ううん。そうじゃなくて…。いつも優しくしてくれて」
「…そう? まぁ、そうかもね。律君には優しくしてる」
「だから、ありがとう」
パンの焦げる匂いがして、慌ててお皿に乗せた。少し黒焦げになっている。
「あ、ごめん」
「それはいいよ。お礼に何かできることあるかな」
「え? お礼? なんの? だって私たちはイーブンだって言ってるじゃん」
「…そうだけど。この関係が何なのか分からないけど…」
「はっきりさせたい?」
「させなくていい。でも…優しい気持ちを受け取ってるから」
インスタントのスープのお湯を溢れさせる。桃花さんはインスタントも作るのが難しいようだった。思わず俺は笑ってしまって、桃花さんの手に上から重ねた。
「恋じゃなくても…大切にしたい」
「…もう」と言って、手を払って、電気ケトルを元に戻して、キッチンペーパーを取って来る。
お湯を吸い取るペーパーをくしゃくしゃにしながら「もう」ともう一度言う。
持ってきたキッチンペーパーでは吸い取れないみたいで、もう一度取り戻ろうとして、背中を向けて立ち止まった。肩が震えている。
「ふふふふ」と笑い声が聞こえる。
「なんか、おかしかった?」
「おかしいわよ」と言って、振り返った瞳は涙を流していた。
強がって、冗談言って、笑って、泣いている桃花さんがいた。
テーブルの上には焦げたパンと溢れたスープ。
桃花さんらしい愛しいものばかり。
「…だから一緒に寝よう」
そう莉里が小さい頃にしてくれたように、二人で温まって、幸せな気持ちで夢を見よう。
その日はまるで子どもになったような気分で並んで眠った。
最初からこうだったらよかったのに、となぜかそう思った。
「本当に人生って…おかしい」と桃花さんはそう言って、目を閉じた。
恋とか愛とか分からないけれど、優しい時間をくれた人に何かできることはないのか。そう思いながら、時間だけが過ぎていった。
朝、汚れたテーブルを見ると、夜に愛おしく見えたパンも零れたスープも汚く見えて、残念な気持ちになった。
テーブルを片付けながら桃花さんは言った。
「律君。コンクール頑張って。それまで会わなくても、連絡なくても大丈夫。結果を知らせたくなったら、知らせてくれたらいいから」
その背中は拒絶しているようで、応援してくれている。
「桃花さん、好きかも」と言うと、大げさに笑い出した。
朝日が明るくて、この部屋は眩しく光る。眩しすぎて、見えないこともあった。
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