第15話

きらきらな音


 春のせいか、身長がまた伸びた。体が痛い。ピアノと一体化するくらい練習している。


「リツ、弦が切れるから、もっと優しく弾きなさい」と先生に注意された。


 自宅でバーベルを使っているせいだろうか。


「必要なのは筋トレじゃなくて、恋。誰かを愛するようにピアノを弾きなさい。春だから恋しなさい。街の猫だって恋するというのに」


「…はい」と言ったら笑われた。


「リツは何でも『はい』って言うけど、そう言わなくてもいいんだよ」


 内心、「先生が言ったんだろ」と思ったが黙っていた。


「恋なんて一瞬で落ちて、でも簡単にはできないからね」と謎なことを言う。


 相変わらずキラキラした音が出せない。俺は則子さんに相談しようと思った。あのキラキラした綺麗な音をどうしたらできるのだろう、と。


 学院で則子さんを探したら、とんでもないところを見てしまった。小さく扉を開けた練習室で講師とキスをしていた。でもたしか…あの講師は結婚していたはず。思わ

ず、俺はそっと扉を閉めた。しかも講師は俺の方をちらっと見て、手で閉めるように指示していた。


(春…だから?)と思わず唸ってしまう。




 その日の帰りに則子さんから声をかけられた。


「あ、お疲れ様」


「あの、律君、昼間に練習室…覗いた?」


「え?」


「驚いたよね」


「あ…はい」


「内緒にしてて。付き合ってるの」


「でも…あの先生、確か結婚してるって」


「知ってる。でも…破綻してるって聞いたから」


(え? そうだっけ?)


 騙されて…という言葉が喉から出かかったけれど、俺は飲み込んで、音の響かせ方に苦労してると、話を変えた。


「うーん。きらきらねぇ」


「弦を切ってしまって、また切るって怒られて」


「すごい力入ってるね」


「かも…。それで恋したらって言われて」


「えー? 律君、恋人募集中なの?」


「いや、別に…」


「みんな立候補したがると思うけど? 私も何人かが律君のこと良いって言ってるの聞いたわよ」


 慌てて、首を横に振る。


「恋愛は…したくなくて」


「え? どうして?」


 どうしてか則子さんには正直に言ってしまった。


「ずっと好きな人がいて…日本に」


「あ、そうなんだ。なんか…意外」


 どういう意味だろうと聞こうと思ったが、あまりいい話じゃなさそうだから、飲み込んだ。


「…律君。本当に内緒にしてね。お願いだから」


「分かってる。それに誰とも仲良くないから…」


「まぁ…そうかも…だけど」と則子さんは素直に言う。


 本当に友達がいないけど、他人から見てもそう見えるのか、と悲しくなった。


「恋したらキラキラっていうことの答えだけど…。多分、そうね」


「え?」


「だって全てが愛おしく見えるから」


「…愛おしく」と繰り返すと、照れたような顔で「もう」と怒られた。


 世界のすべてが愛おしくというのはどういうことだろう。




 家に帰ると、ピアノの前に座る。


「愛おしく…見える?」


 キラキラと言うので、きらきら星変奏曲を弾く。きらきらできたかさっぱり分からない。ショパンのマズルカ…。ちっとも分からない。


「愛おしく?」


 ふと思い出して莉里が好きだった悲愴の二楽章を弾く。莉里を思い出して。いつも一生懸命だった莉里。一緒に見に行った映画で泣きじゃくっていた莉里。お弁当も作ってくれた…。塾の帰りに待ち合わせした。何もかも優しかった日々。


 キラキラじゃない。


 でも温かい気持ちになる。


 俺なりの愛おしさだ。


 莉里がくれた優しい時間を思い出すと、それに応えたくなる。


「キラキラじゃなくても…」


 愛だった。




 翌日、先生に驚かれた。


「リツ、どうかした? 変わったね」


「きらきらじゃないですけど」


「うん。そうだけど、テクニックと力技でピアノを鳴らしてたけど、響きが丸くなってる」と言って、立ち上がって振り返る。


「愛せたんだね」


「え?」


「誰かを」


 俺は黙って頷いた。一方的な愛だけれど、俺は莉里を愛していた。


「じゃあ、次のステップだね。コンクール目指そう」と新しい楽譜を山ほど渡してくれる。


 莉里のおかげで一歩進めた気がした。



 練習が忙しくて気がついたら、いつも夜まで音楽院に残っていた。携帯が鳴って、桃花さんの電話番号が浮かびあがる。


「もしもし、どうかしたの?」と低めのトーンの声が耳を通っていく。


「コンクール受けることになって」


「それで忙しい?」


「あ…まぁ…」


「いいの。元気にしてたら。倒れたんじゃないかって思ったから」


「ううん。元気…なんだけど…。今から行っていい?」


「いいわよ。じゃあ、待ってる」


 どうして行こうと口についたのか自分でも分からなかった。性欲か、同情か、罪悪感か…あるいは愛情か分からなかった。

 桃花さんを都合よく利用している気がして、そんな自分が嫌だった。

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