第17話

苦いカフェ


 コンクールに没頭して何もかも見えなかった。桃花さんとも連絡していないし、不倫がばれて則子さんが転科していたことも気が付かなかった。ひたすら練習、練習を繰り返し、最終まで残る。


「最終まで残ることが目標だから」と先生に言われて「もうよくやった」と言われた。


 その上を目指したくなる。同じ舞台で弾くライバルを見る。案外、みんな緊張していた。でもライバルがミスして自分が勝つんじゃなくて、みんながベストを尽くした中で上位になりたいと思っていた。三位であっさり名前が呼ばれた時は正直、がっかりした。


 それでも先生は大喜びしてくれたし、音楽事務所から声もかかった。


「リィィィィツ。良くやったね。演奏家として一歩を踏み出したよ」


 でも俺が不満気な顔をしていることに気が付いたのか、首を傾げる。


「もっと…もっと足りないんだなって思いました」


「欲張るね」と言って、先生は肩を叩いて笑う。


「一位になって、いつか…」


「なれるよ。ここから先は神様の領域だから」


「神様の?」


「そう。残りの三人の差なんてほんと僅かな差だから。できることは君の音楽を作っていくことだね」


「…はい」


 そんなわけで自分では納得いかなかったが、最年少、日本人入賞ということで、少し話題にはなった。音楽院の日本人留学生の間では顔が知れた。


 則子さんにとりあえず話そうと思ったが、姿が見当たらない。誰か知ってる人がいるだろうと声をかけて聞くと、気まずそうな顔をする。


「…あ。ちょっと…」と言うから「どこにいるか分かる?」と聞くと「コントラバスに転科してる」と言われて驚いた。


 慌ててコントラバス科の授業表を調べる。そして則子さんを見つけた。練習室から出てきたところを声をかける。


「…あ、おめでとう。すごいね」と言ってくれたが、元気がなかった。


「…どうして転科したんですか?」


「私…」


「場所変えますか?」


「そうね…」


 二人で音楽院を出て中華街まで行こうということになった。


「なんで…コントラバスに?」


 メトロに乗って、聞いてみると


「私、幸いにも吹奏楽部でコントラバスを少しだけしてたことがあったの」と言う。


「それでコントラバスに?」


「…そうじゃないわよね。聞きたいことはピアノのことでしょう?」


「まぁ。そうです。だって則子さんの音は本当に綺麗だったから」


「ありがとう」と言って目を閉じる。


 そしてしばらく無言だった。


 駅を出てすぐのカフェに入った。


「不倫が奥さんにばれて。それで破綻してたって聞いてたんだけど…。奥さんが暴れて…大事になったの。でも日本ほど目くじら立てるお国じゃないから、先生はまだ講師を続けてるけど。私は…いられなくなって。まぁ、それでもいてもよかったのかもしれないけど。なんとなく…」


「…そんな」


「帰ろうかなって一瞬、思ったけど。なんか、ここまで来たのに帰れなくて」


 帰れないのは俺も同じだった。


「違う学校でピアノとかは?」


「そう…ね。でも奥さんが違う学校の…ピアノの先生だったの。それに…私のことを助けてくれる人もいて。それがコントラバスの先生と親しくしてる…カフェのマダムで」


 特にお腹も空いてないから二人ともカフェを頼む。


「大丈夫?」と心配して顔を覗きこむと、深いため息を吐く。


「…ピアノと先生と…同時に失ってしまって」


 大丈夫なわけがない。


「遊びだった…みたい。私だけがばかみたいに本気になって…ピアノまで失って」と顔を両手で覆う。


「先生だって…遊びじゃ…」


「男の人って…関係するまでが一生懸命じゃない? もう飽きてたのかも」


 先生がどう思っていたのかは分からないけれど、あの時、少し盗み見してしまった時、手で扉を閉めるように合図していた顔は確かに余裕がありそうだった。留学生なんて、履いて捨てるほど、毎年やってくる。後腐れないような付き合いを他の人ともしていたのかもしれない。


「私は…初めてで…。どんどん好きになっていたのに」


 則子さんがそう言うのに相槌も打てなかった。


「…本当にピアノは…」


「うん。もういいの…。だって思い出すから。曲一つ一つに、先生のこと…」


 確かにそれは辛いかもしれない。


「だから…コントラバス頑張って、いつかラジオフランスの交響楽団に入るって目標を決めたの」と則子さんは俺を見て言う。


「覚えててね。きっとそうするから」


「…うん。きっとできると思う」


 則子さんは強いな、と俺は思った。


「でも…ちょっとうらやましかった。コンクール三位が」


「俺は…もっと上を目指す」


「じゃあ、律君も約束ね」


 苦いカフェを口に入れる。


「絶対、私はここで生きるから」


「分かった。いつか一緒に演奏しようよ。ラジオフランスで」


「そうね。コンチェルトとか?」


「うん。弾きに行くから」


 何てことのないうわごとのような約束。観光客も来ない人通りも少ない静かなカフェで二人で言う。失恋して辛いはずなのに、慰める言葉も出て来ない自分が腹ただしい。


「律君…。先生には気をつけてよ」


「先生とどうにかなるわけないよ。男性だし」


「…そうね。でも分からないわよ。急に嗜好が変わるかも」


「え? ないない」と言うと、ふふふと則子さんが軽く笑う。


 傷ついた則子さんはその後、カフェのマダムと付き合うことになった。もうその予感があの時にあったのかもしれない。

 俺は女性が強いとは言われるけれど、桃花さんを大切にしようと思った。

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