第9話

出会いと別れ


 出発までの一週間、莉里は両親に「どうして律を遠くへ行かせるの?」と何度も掛け合っていた。でも莉里に「僕の希望だから」と自分から言うと、唇を噛んで、莉里は自分の部屋に入って籠ってしまった。


 ゴールデンウィークだというのに、莉里は部屋から出て来なかった。心配した莉里の母が何度もノックをするけれど、返事がない。俺は新品のスーツケースに服を詰める。必要書類もまとめる。今度は俺の部屋がノックされた。


「はい」と言うと、莉里の母親だった。


「ごめんなさい。こんな事…頼むのもどうかとは思うけど。莉里の様子を見てくれない? 少しも返事がないの」


「…分かりました」


 そう言って、階段を下りていく。俺はため息をついて、莉里の扉をノックした。


「莉里ちゃん、出てこれる?」


 耳を澄ませると、歩く音が聞こえる。ドアが開かれた。すっかりやつれている。


「莉里ちゃん、大丈夫? お腹空いてない?」


「…りっちゃん。ごめん。ごめんなさい」となぜか莉里が何度も謝る。


「どうして謝るの?」


「だって、私がもっともっと大人だったら、フランスなんか…」


 莉里は勘違いしている。


「留学は…希望だって。気にするの変だよ」


「だって…」


「折角の休みだからさ。一緒にどこかに行かない? ファミレスでもいいよ」


「…うん。待ってて。用意するから」


「分かった。下で待ってる」と言って、俺はリビングに降りて莉里の母親に一緒にファミレスに行くことを告げた。


「そう…。ごめんなさいね」とため息を吐く。


 莉里も莉里の母親も謝る。


「大丈夫だと思います」


「え?」


「きっと、莉里ちゃんは幸せになると思います」


 莉里の母親は信じられないような顔で俺を見た。


「そう…かしら」


 莉里はきっと俺のことを忘れる。そして誰かと出会って恋をする。穏やかな人だったらいいな、と願った。


「本当に、あなたにはなにも…」


「充分です。ありがとうございました」


 それ以上言うことがなくて、お互い黙って座っていると、莉里が下りてきた。


「莉里…」と母親が声をかけるけれど「出かけるから」とだけ言って玄関に向かう。


「じゃあ」と俺も言った。


 そして莉里とファミレスでパフェを食べた。莉里の目は落ち窪んでいて、相当泣いたようだった。


「莉里ちゃん。もう謝らないで欲しい。向こうで好きなことができるんだから」


「…そう。そうなんだけど」と莉里は視線を落とす。


「だから…もう気にしないで欲しい」


「でもメールしてもいい?」


「いいよ」


 そう言わないと、莉里がまた泣きそうだったから、メールアドレスをファミレスのペーパーに書いて渡す。


「絶対、元気でいてね」


「うん。莉里ちゃんも」


「それから…いつか聴きに行くから。絶対ピアニストになって」


「分かった。頑張る」


「後…。ありがとう」


「僕も…ありがとう」


 そして「りっちゃんがいてくれたから、本当に幸せだった」と言ってくれた。


「僕も」とだけ返した。


 その言葉は嘘じゃない。


「たった一人の姉弟きょうだいだから。永遠のお別れじゃないし」と気休めを言った。


「そうね」と上手く気休めでごまかされてくれる。


 可愛い莉里、さようなら。





 莉里のことを忘れよう、と決めた。


 細い指が髪の梳いている。


「誰の事考えてるの?」


「誰でも…」


 細い体を抱きながら、莉里のことを考えていた。


「いいの。好きな人のことでも考えてくれてても」と言うから、思わず自嘲的に笑ってしまう。


「そんなこと…」


「優しい」と髪を梳いていた手が頬を撫でながら「…でも私は夫のこと考えてるから」と続ける。


「そう?」と言って、キスをする。


 不思議だ。好きでもないのに『夫のことを考えてる』と言われると嫌な気持ちになる。


「夫じゃないか。元夫…」と低く笑いながら、頭を両腕に抱えられる。


「旦那さん…のこと…まだ好き?」


「好きよ。お互い、嫌いになったわけじゃないから」


「いい人だったんだね」


「そうね。優しい人だった」と言いながら、頭の手が背中を辿る。


 背筋にしびれが走ったような気がした。何回かしたけれど、繋がる瞬間はまだ緊張してしまう。


「…痛くないの?」


「痛い」


 そう言われると躊躇してしまう。


「初々しいでしょ?」と笑うから、思わずつられて笑う。


「なーんて。律君の初めて頂いてしまったのにね」


 そう言ってクスクス笑う桃花ももかさんの額にキスをした。

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